ざっくり解説 時々深掘り

死刑廃止議論

オウム真理教の関係者が1日で7名死刑執行された。ヨーロッパでは死刑は非人道的な行為だと見なされており「死刑制度に反対する」という声明が出された。

良い機会なので議論を喚起するという意味合いが強いのだろうが日本人の中には「内政干渉するな」という強い声があったようだ。多分、明治維新期に死刑廃止運動があればすぐさま応じていたんだろうなと思う。日本はこれまで伝統として持っていた「仇討ち」をあっさりと禁止しているからだ。今の日本に西洋並みになりたいという欲求はないので死刑廃止運動が日本で盛り上がることはなさそうである。とはいえ、日本の伝統だから仇討ちを復活させろという運動もない。この運動に意外と合理性はないのだ。

死刑廃止について、オウム真理教をずっと追っていた江川紹子が面白いことを言っている。江川は自身もオウム真理教のターゲットになっているが事件は起訴されなかったという経歴があり、それなりの処罰感情を持ったポジションの人だと思う。

いずれにせよ、死刑を廃止したい人たちは「真相解明といういっけん合理的な理由」を探し出して反対していると指摘している。つまり、西洋のように「非人道的だから」という理由では死刑廃止運動が維持できなかったのだろう。

麻原は

弁護士にも協力しなかったために裁判そのものが維持できなかった。裁判を受ける権利はあったがそれを自ら放棄してしまった。麻原は真相解明に協力することはなかったし、これからもないであろうことが予想できる。死刑制度が維持されている以上は死刑にしないで放置しておく合理的な理由はない。また、すべての計画に関与していることは周りの証言から明らかなので最初から合理的な判断ができなかったという弁護もできそうにない。合理的な理由を探ってもなかなかそれを維持するのが難しいのが死刑廃止運動なのだろう。

ではなぜ死刑廃止論者は「真相解明」しか拠り所を持てなかったのだろうか。そこで死刑廃止を求めるヨーロッパの主張を見てみたところ「死刑は人道的でないから」という以外に論拠がないようだった。キリスト教的な世界観では裁くことができるのは神様だけなので、人間が代わりに命を奪うことができない。自分で死刑廃止の論陣を張ることを考えてみたのだが、やはり人知には限りがありすべての人を「正しく裁くことなどできない」し、同じ人間が他人の命を奪う権利などないということを論拠にすると思う。つまりこれはキリスト教的な価値観だ。

ドイツが死刑を廃止した理由はなんとなくわかる。国民の間違った処罰感情で多くのユダヤ人が財産を奪われた上に虐殺されてしまったからだ。一方イギリスでは冤罪事件が議論の契機になっているようである。つまり人は「間違えて人の命を奪ってしまう」可能性があるということを彼らは知っているのである。フランスは例外的に選挙と議論によって死刑を廃止したが、フランス革命の際に大勢の処刑者が出ておりこれを恥ずべき歴史だと考えている人も多いようだ。だが、いったんヨーロッパの主流国が廃止に舵を切ると「人が人の命を奪うことはできない」という比較的単純な議論に落ち着いているようで、今ではEUの加盟条件にもなっているそうだ。

日本では説得力を持たないであろうことも容易に予測できる。日本人は権力者に同調的でありどちらかといえば自分が権力を持っている前提で他人の問題を論評したがる。サッカーの論評は監督目線で行われ、人間ピラミッドの問題では最下層目線で論評する人はいない。自分が「下」であることを嫌う社会なので人権の観点からではなく権力者の立場に立って治安維持について語ってしまうのだろう。

ヨーロッパにあった絶対王政は民衆の支持を必要としない。異民族の場合には持続性も問題にならない。単に好き勝手に自分の利益のみに従って政治を行えば良いし、治安が維持できなくなれば撤退すればよいのだ。だが、ヨーロッパも権力者の上に仮想的な絶対権力者である神を仮設することによってしかこの理不尽さを抑止できなかった。

だが日本にはここまでの絶対権力者はでなかった。日本では権力者もまた列島に閉じ込められてしまうために被征服層と共存せざるをえない。実際に神話を見ると征服者として入ってきた人たちが現地の人たちと妥協した様子が伺える。神話には天津神という外から入った人たちと国津神というもともと列島に住んでいた人たちの分別が見られるからである。外から入ってきた人たちは多分大陸から押し出された少数派なので、現地の人たちと妥協しなければ安定した政治が行えなかったのだろう。逆に列島にいた人たちは外から入ってくる技術などを求めていた。ここが他民族支配が一般的だったヨーロッパとの違いである。

だが、世界の潮流が死刑廃止なので、死刑廃止論者は難しい理論を準備する必要はない。仇討ちと同じ理由で禁止を主張すれば良い。仇討ちが禁止されるのはそれが野蛮だからだ。世界標準は単に「人は限られた知識に従って他人の命について裁くべきではない」という主張をしているにすぎない。ドイツのユダヤ人虐殺やイギリスで冤罪事件が死刑廃止運動につながったのがその好例である。

多くの反安倍派の人が懸念しているように権力者は死刑制度を利用できる。民衆が政権に反対している時にストックしてあった死刑囚を殺せばある程度彼らの溜飲を下げることができるうえに誰が支配者かをわからせることができるからだ。これが死刑のメッセージ効果である。日本政府が国家を模倣したオウム真理教を潰し幹部を殺したのは「国を治める」ことが政府の特権だと考えているからだろう。

アムネスティの調査によると死刑が行われているキリスト教国はアメリカとベラルーシしかない。民主主義国ではない中国の死刑が多いのは民衆の選挙によって選ばれていない政権が市民の不満を反らす必要があるからだろう。同じ非民主国(こちらは形式的には民主主義国ではある)の北朝鮮では実情がよくわかっておらず1000人が処刑されたという情報もある。軽犯罪者を見せしめ的に処刑して住民に「誰が支配者なのか」ということをわからせている。イランも処刑者が多い国だが、民選の政府の上にイスラム教勢力がおりこれが王政の代替手段になっている。この体制に挑戦すると「反革命的」とみなされ再審なしで裁かれる可能性があるそうだ。このように死刑というのは体制維持に使われることが多い。

死刑制度についての議論を見ていると、言葉が通じない絶対権力者に徹底的に蹂躙された歴史のない日本人にとって西洋流の民主主義を受容することは意外と理解が難しいのかもしれないと思う。

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です