Twitterで政治には情が必要だとつぶやいたところ「政治には情は必要ない」という返しをもらった。このように、政治や経営には冷静な判断力が求められるというのは多くの人が持っている了解だろう。確かに政治に温情を入れてしまうと身内びいきになり判断を間違える可能性があるので、できるだけ合理的に判断すべきであるというのは一見筋が通っているように思える。だが、本当にそうなのだろうか。
前回、死刑について見たときに合理性だけでは説明ができない問題があることがわかった。死刑にせよ仇討ちにせよ「犯罪に抑止効果がある」という一見合理的な説明はできるのだが、世界的な標準に照らし合わせるとやはりそれは古びた理論である。さらにアメリカ流の「市民が武装すべきだ」という考え方も「抑止力」という合理性のある説明はできる。
ところがよく考えてみるとこうした「合理的な」判断の裏には、いままでのやり方を変えてしまうと「とんでもないことになるのではないか」という不確実さにたいする恐れや、自分の他罰感情を満たせなくなってしまうという気持ちもあるのではないかと思われる。つまり、人は合理的に判断しているつもりでも、実は感情に動かされているのである。だから重要なのは自分の判断にどの程度感情が関与しているかを意識することなのである。
ヨーロッパの人たちの人権は宗教的な心情に支えられている。人間は自分自身の人生においての主人であり、誰にも裁かれるべきではないという価値観があり、それを自分にも認める代わりに他人にも認めるべきだというのが死刑廃止論の根底にある。その根底にあるのは合理性ではなく情である。これが文明ごとに違っているので、イスラム圏や東洋圏では必ずしも死刑を人権の問題と合わせて考えることができない。こうした考え方をプロライフと置くと、それでは生まれてくる子供の命も守ろうということになる。だが、それは望まない妊娠をした母親という問題をうむ。こうして一筋縄では行かない問題にたいして「命を大切にしなければならない」という価値判断を根底に置いたまま合理的に説明を試みるというのが政治議論のおそらく基礎になっているのではないかと思う。
西洋の人権基礎には「情」があり、それを万人に平等に適用しようという考え方がある。そのためにルールが作られ、ルールの実行時には個別の情を排除した判断が行われるということになっている。経営の場合にも同じことがいえる。「儲かる企業になる」というのはビジョンにはならない。価値観があってそれが計量可能な経営方針に落とし込まれる。
日本の政治議論を見ていると非合理性には別の使い方があるようだ。理不尽さをマウンティングに使うのが日本流である。設定されたルールをわざと破ったり適応しないことによって「自分の方がお前よりえらい」こととを自慢するのである。このためルール通りの権利を主張する人たちに「黙れ」と恫喝したり、その主張を認めないことによって強さを誇示するようなことが日常的に行われている。何の成果も生まないものの、これが意味を持っているのが日本社会である。だから日本社会には多くの人が共有するビジョンがない。逆にそのようなものを持たないようにしているのが日本社会なのだと言える。意思決定を保留したり曖昧にしたりすることで支配したがるのが日本人なのだ。このような分かりにくさのために理不尽に意思決定を妨げられた日本人は政治に情が介入するのを嫌がる。
社会が成長している時にはそれほど困ったことにはならないが、経済が行き詰まるとビジョンなき社会は破綻し、お互いがお互いを否定し合うという不毛な状態である。かつての母親世代は「外にお勤めに出る嫁世代は単なるわがまま」という。配偶者を持って子供を作る経済的な余裕がない女性は電車の中で子供を抱いた母親を「子供を自慢しているのか」といい睨みつける。男性は「レイプされる女性には落ち度があった」と語り合い、給料が上がらない若手は「おじさんたちはいつ引退するのか」と真顔で嫌がらせをするという社会である。自分の幸せは得られないが、他人にマウンティングすることで、その場しのぎの「勝ち」という感情を得るのだ。だが、その実態は蜘蛛の糸にすがる人を引き摺り落として「あの人も天には登れなかった」という悦楽を得ているにすぎない。それは単に地獄の中の癒しに過ぎないのである。
政治には価値が必要だということは東洋人も理解していた。これを「徳」などと言っている。教えによって様々な定義のある「徳」だが、統治者が持つべき理想や心構えについて記述した価値体系が徳である。西洋的な民主主義において政治家は国民の中から選ばれるのだから徳というより共感力のような情が必要だと思う。特に優れたリーダーになろうという人は、国民に共通の目的を見つけて社会が共通して持てるような価値観を提示すべきだろう。。普通はこれを政治的なビジョンとかアジェンダなどというのだろうが、そこにあるのはやはり合理性ではなく情である。
確かに「誰かを贔屓してルールを歪めるため」の情は政治からは排除されるべきだと思うのだが、実際には情や価値観抜きに政治はできないと思う。人間は合理性だけで生きられるほど強くないのだ。
自民党の議員たちが次の総裁選挙のためにパーティーを開いているという話がある。すでに有権者との間に共感を結ぶということを諦めているようだ。ある意味「徳を失った」象徴のような絵柄だと思うのだが、自民党がどのような末路をたどるのかということにとても興味がある。彼らは統治者としての徳もなく有権者の先頭に立って復興を目指すという情もないようだ。儒教では天が徳のない統治者を見放すことを「易姓革命」と呼ぶそうである。
いずれにせよ経済合理性だけで人は動かない。損得は人によって異なっているので、それをすり合わせるためには共通の目標が必要だからである。