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日本の秘められた恥が生み出す対立

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BBCの日本の秘められた恥という番組をYouTubeで見た。BBCでも配信されているが権利の問題で日本では閲覧できないようだ。YouTubeに上がっているものは15000回程度しか閲覧されておらずそれほどの関心は集めていないようである。だがTwitter上ではそれなりの議論があった。多くの人はプレゼンテーションにはあまり興味はなさそうだが、この事例には関心があるようだ。この件に安倍首相が関与しているとされており、世界で否定される安倍首相という図式が欲しいのだろう。

どうやら状況証拠から見ると、安倍首相の近辺が事件をもみ消したのは確かなようだ。これまでも見てきたように安倍政権では文書のごまかしや嘘が蔓延しており政府の信用は毀損している。こうした嘘が蔓延するエセ民主国が世界から信頼されるはずはなく、国の地位に何かしらのダメージを与えることは間違いがないだろう。

一方で、このプレゼンテーションには問題があると思う。女性を解放するはずのリベラリズムが別の差別を利用しているからだ。

プレゼンテーション自体に扇情的な要素はなくむしろ淡々と状況が語られる。これが却って伊藤さんの境遇に同情を集めるしかけになっている。

特に、彼女が望まない性行為を強要されたうえで「合格だよ」と言われるシーンはとてもショッキングだ。地位を利用して「評価する立場にある」ジャーナリストが体を評価して上から目線で「合格だよ」と言い渡したからである。彼女は評価される対象であり、このジャーナリストは評価する人なのだ。つまり日本でジャーナリストとして働きたいなら性的に搾取されても仕方がないという社会が形成されている。TBSはこれについて一切評価していない。ということは日常的にこうしたことが行われているのだろう。つまりTBSはメディアではなく現代版の芸者置屋なのだ。

ホテルの防犯カメラの映像で証拠もあり逮捕状まで出されるのだが、執行はすんでのタイミングで差しとめられる。TBSのジャーナリストが安倍首相に好意的な自伝を書いていることもあり、政治的な判断が働いた疑いが持たれている。こうしたことは他では起きていないのだからなんらかの意図が働いたのは間違いがなさそうである。

伊藤さんを苦しめたのはその後の対応だった。警察では男性から人形を使った再現を求められ、そのあとも政権に近い人たちの暴言に苦しめられる。安倍政権の支持者たちは家族への嫌がらせをほのめかし、家の中に盗聴器があるのではと疑う。内閣府にも話に言ったが当事者意識は薄くその場をとりつくろおうとするばかりである。

このプレゼンテーションで「事実」を見せられた人は誰でも日本はひどい国だと思うだろう。だが、このプレゼンテーションには問題もある。

冒頭には日本では性が商品として自由に売られているというようなイメージ映像が使われている。イギリスやアメリカにもMeTooムーブメントに見られるように性差別はあるが巧妙に隠蔽されている。おおっぴらに対象化された性が売られている一角がある日本は叩きやすい国なのである。例えば日本でも同じようなプレゼンは作れる。ロンドンの公営住宅の問題を取り上げて「日本にはこうした人種差別はない」というような満足感が得られるプレゼンテーションが作れてしまうのである。

次の問題点は文化対立だ。英語圏の人は日本人な曖昧な意思決定を嫌う。非言語的な意思決定がよくわからないからである。そこで彼らは本当の意思決定はどこか別の場所で行われているのだろうと疑う。実はこれは彼らが日常でやっていることである。国際的な会合でもあとでアングロサクソンやキリスト教国だけで集まって「談合」するというようなことがよくあるのだ。日本の場合は意思決定そのものが曖昧なのだが、それは彼らには見えないので彼らの実体験から間違った類推をしてしまうことがあるのではないかと思う。

そこで「英語が得意な人たち」と「日本語でしかコミュニケーションしない人たち」という対立構造が作られている。日本の曖昧なコミュニケーションがわからない人たちは日本ではインサイダーにはなれない。日本の機微がわからないからである。だが、彼らはあくまでも「言葉で説明してくれ」と要求する。それが彼らのやり方だからだ。そしてそれを合理化するために「合理性」や「近代性」と言い換える。包摂的な優しい関係性は曖昧で前近代的だと断罪されてしまうのだ。

だからこのプレゼンテーションで「文明社会」にいるのは英語が得意な女性と一人の白人男性だけだ。もちろん伊藤さんを支援する側にも日本語話者がいるのだが、日本語話者はすべて無力な存在として描かれている。Twitterで見た反応の中には「日本語を話す詩織さんと英語を話す詩織さんは別人に見えた」というコメントがあった。つまり「ふつーに英語を話す人」だけが人間であとは何か別の生物なのかもしれない。

こうした対立は実はかなり深刻な問題を作り出している。それが合意の問題である。日本人の合意は極めて曖昧だ。日本の強姦罪は長い間更新されてこなかった。プレゼンテーションでは110年変わっていないと説明されているが、実際には2017年7月に変更されている。(wikipedia

古い法律なので合意の定義が曖昧な上に、日本社会での意思決定の曖昧さが英語話者を苛立たせているという事情も重なりこの合意の定義はかなり否定的に扱われている。

このためプレゼンテーションを見た人たちの中には「日本では強姦の定義に合意が必要ないらしい」と勘違いした人もいるようだ。プレゼンテーションの中では「曖昧」とされているのだが、理解できないので「ない」とみなす人がいるのである。合意が必要ないなら強姦自体が成り立たないのでこれは誤解なのだが、プレゼンテーションをみると説明が曖昧なので「あれ、合意はいらないのかな」などと思ってしまう人がいても不思議はないなと思う。さらにこれを又聞きしてプレゼンテーションを見なかった日本人にも「強姦に合意は必要ないらしい」などとショックを受けている人がいる。安倍政権のことで頭がいっぱいなのでプレゼンを見て詳細を確認しようなどとは思わないのだろう。

英語のコメントをランダムに拾っただけで誤解はすぐに見つかる。overtはあからさまとか明示的という意味のようなので、これは比較的理解されているほうだろう。が、明示的な合意という言葉でこの人が何を理解しているのかはよくわからない。二番目は合意がなかったからといってレイプを証明することにならないと理解されている。三番目は日本のレイプ法には合意という概念がないと言う。

この「情報」は男性(例えば在日米軍の兵士など)には別の誤解を与えるかもしれない。日本では女性の権利が弱いので強姦してもいいのではないかと思われかねない。つまり本国にはいない従順な女性が合意なしで抱ける国と思われかねないのだ。確かに山口さんの行動が社会から大ぴらに容認されるなら(プレゼンテーションの中ではそう扱われている)ハーヴェイ・ワインスタインは日本に転居すべきだろう。

曖昧な上に「女性が虐げられた日本」というある意味エキゾチックな印象が足されると、逆に男性の歪んだファンタジーを増幅させかねない。だが、それについて日本人の男性が異議申し立てをすることはできない。男性優位の社会を享受している人が問題を曖昧にしようと試みていると疑われかねないからだ。さらにこの問題を複雑にしているのがネトウヨ議員たちである。一部の議員がこのような印象を持っているなどとは思われない。日本の社会がこうなのだと思う人は確実に出てくるだろう。だから日本人として問題を認識した上で正確性を期さねばならないなどと言い出せる状態ではなくなっている。ここからもこの一連の議員の悪質さがわかる。

杉田さんは自分たちはルールを作り検察さえもコントロールできるのだという万能感に浸りたいのだろうが、この彼女の対応は「日本は社会として強姦を許容し、国や司法制度は隠蔽している」という印象を裏打ちし、文化的誤解や対立を助長する。

前回はちょっとしたルールを逸脱をほのめかすことが競争的な日本人に支持される可能性があると書いたのだが、今回の問題はそれとは異なる。競争に勝てなくなった人たちが「無茶苦茶なルールを弱者に押し付けることによって優越感を得たい」と感じた時、社会を維持するために必要な信頼は失われる。そしてそれは又聞きによって誤解されて広く発信されてしまうのである。

こうした無法さは、挑発に乗りたい人を生み出す。最近見た中で印象的だったのは山口二郎教授のこのツイートである。伊藤詩織さんの件ではなく労働法改正に関してのコメントだと思うのだが「多少手荒な方法」と言っている。安倍首相の政権運営は、もともと民主的な問題解決を希求していた人たちを戦闘員に変えつつあるようだ。

最初は民主主義のルールの中での多少手荒な対応なのだろうが、これがその境界を超えない保証はない。山口さんには良識があり踏みとどまるだろうがこれを見た人たちはまた別の過激さに思いを馳せることになるかもしれない。正義を希求するものはそれがリベラリズムであろうと何であろうと暴力的な活動に変異してしまう可能性があるのである。

伊藤さんのプレゼンテーションとそのリアクションの過激さは問題に対面した人たちが分裂や対立に向かって行く様子をかなりリアルに見せてくれる。そこに「話し合いで理性的に解決して行こう」というような気分は全く見られない。

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