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日本は基本的人権と民主主義を受け入れるべきか

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今回は基本的人権について考える。日本人が「世界から押し付けられた」基本的人権という概念を受け入れべきかということを考えつつ、基本的人権そのものについて見て行きたい。このエントリーはあまり受け入れられていない仮説を含んでいる。

人権はすべての人々が持っている属性のことだ。つまり人が人であるのに欠かせない基本的な一部で切り離すことができない。それゆえに、誰かが勝手に取り上げたり、自分で売ったりすることもできない。権という言葉には「権力」のように他人に行使するという意味合いがあるのだが、この漢字に惑わされると基本的人権の持っている意味の一部が損なわれてしまう。

基本的人権は「天賦」人権というように「天が賦与した」という印象がある。これは基本的人権の概念がキリスト教の元で育まれたことを意味している。日本はキリスト教国ではないので「日本の国情に合わない」という人がいる。英語ではナチュラルヒューマンライツと呼ばれており、自然に持っている権利というような意味で理解されている。複数形で用いられることから幾つかの諸権利によって成り立っているということがわかる。誰かに支配されない自由権と社会に参加することができる社会権がその主なものである。

もともと古代ギリシャ時代から人権という概念があったが、それがヨーロッパのキリスト教の影響下で精緻化されて今日に至っている。これが国際的に広まるきっかけになったのは第二次世界大戦後に作られた世界人権宣言である。

世界人権宣言は、ドイツがユダヤ人を迫害したり日本がアジアの国々を蹂躙した反省のもとに作られたとされている。日本に「天賦人権は国情に合わない」とする人が多いのはこうした経緯に反発しているからだろう。いわば「戦争に負けた日本が悪者になった」と思っている人が少なからずいるわけだ。

確かにこれは一面の心理なのだろう。日本が入ったことで世界人権宣言が作られたという経緯は確かなのだが、別の考え方もできる。

これを理解するには北朝鮮が核を持った現実を考えてみるとわかりやすい。今まで五大国が核兵器を持つことは容認されてきた。これは戦勝国という特別なクラブなら核を持っても「安心だ」という歪んだ考え方がある。北朝鮮は特別なクラブの一員ではないので世界各国が慌てている。実は国連ができる前にも同じような時代があった。

日本が入ってくるまでヨーロッパは「自分たち」と「それ以外」を分けて人権を考えていた。ヨーロッパの国には主権を認めていたが、ヨーロッパ以外は植民地にしても構わないと考えられていた。ヨーロッパには神の恩寵がありそれ以外の世界を善導してやる責任があると考えられていたからだ。

ここに、日本が入ってくることによりプロトコルさえ守れば非白人国にも国家主権を認めなければならないということになった。帝国主義のフロンティアがなくなり争奪戦になったことも合わさって「これ以上、帝国主義を維持するのは無理だ」ということになったのだろう。そこで世界は日本も入れた世界に対して「キリスト教に変わり得るような普遍的な理屈」を作る必要に迫られた。そこでキリスト教から宗教的な匂いを消したのが基本的人権なのではないかという仮説が立てられる。

キリスト教はウエストファリア体制の中で重要な役割がある。それが相互主義だ。

自分たちの権利が侵されないように他人の権利も認めるという相互主義は人権の基本的概念になっている。つまり他人の権利を認めることで自ら収奪の対象になるのを防ぐという実利的な側面があるのだ。日本人がこうした権利と義務の相互主義を認識できないのはこのキリスト教の持っている「愛」という概念を偽善的なものと捉えてしまうからだろう。

さらに日本は個人ではなく集団で牽制し合うことで均衡を保ってきた歴史がある。ヨーロッパと比べると均質性が高い社会だったのでこれでも十分だったのだろう。しかし多民族社会のヨーロッパには「話さなくてもわかる」というような信頼感はない。そもそも通訳かリングワフランカをおかなければいなければお互いの意思疎通すら難しいという社会である。

この違いのために、日本人には「個人と個人の安全保障」という権利と義務の相互主義の概念を理解するのが難しい。後述するようにこのことが人権に関する議論をやっかいなものにしている。一方、キリスト教国もキリスト教的な人権意識をイスラム世界に押し付けておりこれが反発されている。

いずれにせよ、帝国主義が切り替わる形ですべての国家の主権を相互的に認め、その基本理念として人権が採用されて新しい国際ルールになった。ウエストファリア体制はキリスト教という普遍的な理念が基礎になっているのだが、それを非宗教的にしたのが世界人権宣言と言える。キリスト教を発展的に解消することで新しい世界秩序を作ろうとしたのかもしれない。

日本の文明が特殊なのはこうした価値観をいったん何も考えずに受け入れてしまい、自分たちが持っている集団的な安全保証維持の仕組みと「なんとなく折り合わせてしまう」という性質を持っているという点である。これが一神教のアラブ社会や中華秩序という一極階層構造を持っていた東洋社会との違いになっている。

キリスト教違反に罰則がないように、世界人権宣言そのものには法的な拘束力はない。人権を無視しても道義的な非難を浴びることはあるが国際的に処罰されるということはない。

ただしその道義的非難は時として軍事行動にまで結びつくほどの激しさを持っている。キリスト教(カトリック・プロテスタント系)は人権の本場だという自己認識があり、それ以外の国を<善導>してやりたいという気持ちがあるのだろう。これが中国やイスラム圏のような非西洋諸国からの反発されることも多く、時には「文明の衝突」とまで言われる軍事的な軋轢を生んでいる。

前述した通り日本には「天賦人権は国情に合わない」と考えておおっぴらに主張する人たちがいる。これについてはいくつか考慮すべき問題がある。最初の問題は世界人権宣言の導入過程である。日本が国際社会に復帰する際に条件として「人権を遵守する国になる」という約束をした。これは帝国主義国と植民地を結びつける新しい理念として必要だったということになるが、日本はその中の唯一の例外だった。つまり日本は人権についてはある意味当事者と言える。その日本人が「天賦人権は日本の国情に合わない」というのは、この統合理念の全否定でもある。近視眼的に国内世論を機にする勢力はこのことをあまり考えないが、これは究極的には軍事的な衝突を生み出すことになるだろう。

しかし一方で日本人は「本当は民主主義など理解していないのにとりあえず国際社会に入るためのパスポートとして飲み込んでしまった」という自らの才能については過小評価している。飲み込んでしまったのだから社会の根底からキリスト教的になっても構わないのにそうはなっていない。

付け加えるならば明治期以降の日本の成功もいち早く国際社会のプロトコルを理解したところにあった。つまり短時間に帝国主義社会の体裁を整えることで収奪される側ではなく収奪する側に回ることができたわけである。さらに、戦後はよくわからないものの人権を取り入れることで国際社会にいち早く復帰することができた。「よくわからないがとにかく飲み込んでしまえ」という気風がプラスに作用していたことになる。

つまり、天賦人権を否定して<国情にあった>称する体制に戻ることは戦後日本が築き上げてきた地位を否定することになるのだが、実はその<伝統>とやらは明治政府が帝国列強に参入するために一神教を手本にして急ごしらえしたものに過ぎない。だから原理化するのである。もともとの新党には教義がない。日本人は構造的に原理化を防いでいる。つまり書かれた教義を作らないので、教義が暴走することが理論的にありえないのである。これをユニバーサルに解釈すれば、キリスト教対イスラム教というような正面衝突を避ける仕組みが日本人の中に備わっているということを意味する。この曖昧さが「日本人の本当の憲法第9条」なのかもしれない。

ここまでは、日本人が日本人の持っている特質を過小評価しているという点について考えてきた。ここから先はTwitterで見られる暴論について考えて行きたい。

さ権利ばかりを主張する人がいるから自衛隊にぶち込んでしまえという議論は暴論にすぎない。権利ばかり主張するのではなく他人の権利も尊重すべきだというのが正解である。権利と義務は相互関係にあるからである。となると、お互いの権利が整合するようにするのが政治の役割だが、それを放棄した上で「獣人になるように軍隊的な集団生活に放り込む」という主張は人権社会の政治の全否定になっている。自民党の憲法草案は下野のルサンチマンを晴らすためのものなので、こうした暴論は彼らの潜在的な怯えの産物だと考えるべきだろう。

また「人権侵害の政治主張も言論の自由だ」と言ってはばからない人たちがいる。これはもう少し単純に論破することができる。言論の自由は人権に乗っている。つまり人権の一部である。この中には自分が生きたいように生きる権利がある。そしてその中には自分が生きたい社会を作るために仲間を募って主張するという権利が含まれている。人権の中に結社の自由や表現の自由があるのはそのためである。

権利と義務というのはコインの裏表に当たる。ただ、これは100円分の権利を使ったから100円分の義務を負うというような等価値交換の原理ではない。自分の権利を主張するのであれば他人の権利を尊重する義務を負うというのが裏表になっている。

ゆえに「他人の権利を侵害する言論」が同じ人権によって許容されることはない。例えば「アイヌ人などいないから少数民族としての権利など認められるはずはない」というのは言論の自由にはならない。それは「自分たちは民族の出自を明確にして誇り高く生きて行きたい」という権利を侵害する権利はだれも持たないからである。つまり、言論の自由があるから他人の人権を制限していいというのは単なる屁理屈である。そしてアイヌ民族の人権をも守るのは「日本人が日本人として生きてゆく権利」を主張するために必要なことなのであり「アイヌ人がかわいそうだから守ってあげている」わけではないというのも重要な点だ。

これまで見てきたように、基本的人権は日本が国際社会に受け入れられるために受容した理念であり、できるかぎり尊重されるべきである。ただしキリスト教的な伝統を持たない日本人がこうした異質な理念を受け入れることができた裏には日本特有の文化的許容性があるというのも忘れてはならない点だろう。日本人自身がこの特質を過小評価しているがゆえに、生産性の低い子供の理屈のような暴論が飛び交っている。これはとても残念なことなのではないだろうか。

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