週末はあまり森友学園関連の状況は動かないだろうと思うので、興味深いと思っていることを書く。それは日本の政府関係者とアメリカのトランプ大統領の関係である。
朝一番に、西田昌司参議院議員がテレビ出演しているのを見た。Twitterで人権無視の発言が広く拡散されている人なので、どういうバックグラウンドの人なのだろうかと思った。もともと政治家の二世だったが、地元を引き継いだわけではなかったようで、2006年に自民党の公募に「安倍首相に考え方が近い」と応募したという経歴のかたなのだそうだ。大学は東京の大学ではない。彼が展開していたのは「財務省が」という議論だった。これまで村落的な議論を見てきたので、この人が村落の人間関係を問題にしていることが分かる。だがその感性は極めてネトウヨ的だ。
そもそも森友学園問題は政権を擁護するために財務省の幹部が地方組織に圧力をかけたという構図が固まりつつあり、擁護の議論は無理筋になりつつある。それでも他の議員や県知事を経験した指揮者などは、安倍首相の個人的な問題ではなく、民主主義のプロセスや森友学園問題で特別な配慮がなされたことに関心があるようだった。ところが西田議員がが問題にしているのは「誰が」やったかという点にある。
ここから、西田さんに代表されるネトウヨの人たちは「誰が」ということに強い関心を寄せる人たちなのだということが分かる。主語に興味がある人たちなのである。それは「誰が言ったか」によって「何を」の評価が変わってしまうということを意味している。
西田さんはもちろん「財務省が」ということを強調していた。財務省がやったという印象さえつけば政権が守れると考えていることになる。これはいろいろと興味深い。今回の出来事は人が一人亡くなっている刑事事件である。この背景には実際に作業をした人と管理をした人という関係性がある。この関係性を分析しないと事件の全容は見えない。
ところが、ネトウヨの人たちは「我々」の範囲を操作することによって責任を逃れようとしている。ここからネトウヨと呼ばれる人たちの本質が見えてくる。彼らは「誰が」が問題であり、なおかつその「誰」の範囲を操作することによって物事の評価が変わり得ると考えていることになる。それは「我々」が「私」の評価に関わっているからである。
ネトウヨは保守を自認しているのだが、保守とは正統性を意味しているのだろう。誰がということが問題にはなるのだが、何がは問題にならない。だからネトウヨの考える歴史や伝統にはデタラメなものが多い。神話を前提に話をしても自分がいい気もちになれれば一向に構わないのだろう。
ネトウヨが法治主義に我慢ができないのは当たり前だ。法治主義とは誰がやっても同じ結果が出ることを前提に作られた制度だからだ。しかし、これでは「いつも自分をいいものがわ」に置けなくなってしまう。善し悪しの判断は最後まで保留されていなければならない。そこで憲法に例外措置を作ったり、その場で適切に判断すると主張してみたりといった支離滅裂な主張を繰り返すのだろう。
確かにこのやり方には利点もある。自分の利益について一番よく知っているのは自分たちなのだから、固定的な環境では柔軟に対応ができる。ここでお互いの利害が相反するようになれば何らかの形で均衡が図られるだろう。利害も領域も動かないのだからこうして何らかの安定した状態が得られる。
ただし、伝統的な村落は条件の制約も受ける。例えば村に農民と侍がいるとする。農民を殺してしまえば自分たちで畑を耕さなければならないのだし、数では負けるのだからある程度彼らを処遇しなければならない。つまり、疲弊するまで支配することはできないのである。
ところがネトウヨはこうした制約条件を持っていない。そこで普段は自分たちは農民を支配する正統な支配者であると主張しつつ、何か問題があった時には農民だけ切り捨ててしまえば良いのである。同じような状況は企業にも生じている。農民がいくらでも調達できるのだとしたら使いたい時だけ使えるようにすれば良いと考えるのであろう。
だが、この考え方は間違っている。農民は決して地面から生えてくるわけではない。農閑期に追い出してしまえばいなくなってしまう。これを養う主体というものを社会で作らなければ農民はいなくなってしまうだろう。現在の企業は労働者の育成と再生産を「国に押し付けている」のだが、結局これは自分たちの首を自分で絞めていることになる。荒れ果てた土地を自分たちで耕作するか放棄させられることになるだろう。
ここまでいささか乱暴な議論でネトウヨというのは自分たちが常に正しいという前提に立って物事を解釈し、なおかつ自分たちの範囲を調整しているということがわかった。このため彼らは権威を利用しようとする。戦後世界において権威を担っているのは天皇とアメリカであり、場合によってこれを使い分けている。権威にすがるためなら自分の所有物を差し出すことも厭わないだろう。政府の徴税権も国有地も結局は自分のために利用できる道具にすぎないし、官僚ですら自分たちが正しいということを証明するための道具である。例えば私たちはペンを文字を描く道具として利用する。そしてインクが出なければ捨ててしまう。そこに罪悪感はない。安倍首相にとって官僚組織というのはペンと同じなのかもしれない。そのインクは自分を讃えるための文字だけを書く道具にすぎないのである。
ところがトランプ大統領は全く違った行動原理で動いている。彼もまた「自分が正しくなければならない」と考えているのだが、その証明の仕方が全く異なっているのである。
トランプ大統領がよく口にする言葉にdealがある。日本語では取引と訳される。そしてその取引を成功させ続けることが自己の証明になっているのだ。つまりトランプ大統領は主語を問題にしているのではなく、動作が問題になっているということになる。動詞(取引する)が正しい時、主語もまた正しいのである。
世界はかなり単純にできていて「相手から何かを勝ち取ればそれは良いこと」になり「相手が何かを勝ち取ればそれは悪いこと」である。そして彼が「良い人」でいるためにはつねに勝ち続けなければならない。
このためトランプ大統領は常に取引に勝ち続けなければならない。そのためだったら何だってする。自分が使えるものは(たとえ自分のものでなくても)使うだろう。そして勝っていなくても勝ったと主張するだろう。
トランプ大統領にとって選挙戦は巨大な取引だった。そのために約束をしてしまったのだから戦果を上げ続けなければならない。だから、トランプ大統領は北朝鮮と勝負したがっている。状況を動かすためなら北朝鮮に乗り込んでいって勝負をすることなどなんとも思わないだろうし、そのためには何だって使うだろう。
ここでいう取引はすでに「カジノ」のような状態になっている。これが自分のスタッフ抜きに北朝鮮との取引を決めた背景にあるのではないかと考えられる。つまり、みんなが止めるにもかかわらずそこに賭場があれば出かけて行ってホテルの部屋にあるものを根こそぎ賭けてしまうのだ。
トランプ大統領は、勝負に勝つためなら日本を「我々」に含めることもあるのかもしれないが、それは関係性に考量しているからではなく、単に勝負に勝つための方便でしかない。その証拠に関税を上げて「取引に応じるなら減免してやってもよい」などと同盟国に揺さぶりをかけており、その対象国の中に日本が入っている。取引を仕掛けて揺さぶりをかけているのだから罪悪感を感じても良さそうだが、実際にはこんなTweetをしている。外交安全保障と経済がごっちゃになっていることがわかる。
Spoke to Prime Minister Abe of Japan, who is very enthusiastic about talks with North Korea. Also discussing opening up Japan to much better trade with the U.S. Currently have a massive $100 Billion Trade Deficit. Not fair or sustainable. It will all work out!
— Donald J. Trump (@realDonaldTrump) 2018年3月10日
この状況が危険なのは安倍政権側が自己を正当化するためにアメリカを今すぐに必要としているということだろう。カジノに夢中になっている人のところに出かけて行き自分の保証人になってくれと要求している。ところが相手は次の賭けに夢中になっており、この勝負がいかにすばらしく、その勝負に立ち向かう自分がいかに英雄的なのかを一方的に話す。そして最後に賭けに勝つためにはお金がいるのだが、あんたは俺を男にするためにいくら出してくれるのかと持ちかけるわけである。
北朝鮮情勢での対応を一歩間違えれば多くの人命が失われるだろう。確かにムンジェイン大統領のやり方は冴えているとも思えないし、他にやり方はなかったのか、弱腰ではないのかとも思いたくなる。しかし、韓国は朝鮮半島情勢からは逃げられない。その一方で、日本とアメリカはそれぞれの懸案に夢中になっているようだ。特に安倍晋三という人は人が一人なくなっているのに「自分に累が及ばないようにするためにはどうしたらいいか」ということにばかり関心が向いているようだ。
つまり、今回の森友問題は朝鮮半島情勢と奇妙にリンクしていて、場合によっては事態を危険な方向に向かわせる可能性があるということになる。普段なら外務省を通じて「対応を当たらせる」だけかもしれない官邸が外交に首をつっこむと事態はさらに混乱するだろう。