面白いできごとがあった。財務省の近畿財務局が一度決済した書類を書き換えたという報道が出ている。もし書き換えがあればこれは犯罪行為なのだが、安倍政権はこれが「なかった」とは言えない。一方で朝日新聞社も「原本を確認した」とか「コピーを持っている」とは言えないらしい。そこで予算審議が紛糾し国会が止まってしまったのだ。テレビのワイドショーは3番目くらいにこのニュースを伝えている。
面白いのは田崎史郎さんが出てこなかったことである。田崎さんは日本の民主主義にとって重要な機関になっている。この田崎さんが出てこないということは、この件を政権が重く受け止めているということを意味する。
与党側から「情報のリークは犯罪だから誰がホイッスルブローワーになったのか教えろ」と朝日新聞を恫喝する議員が出たようだ。一方で野党支持者の中にもこのまま安倍首相逮捕まで持って行けと騒ぐ人がいる。
報道機関に対して告発者を白状しろと騒ぐ人が議員が民主主義が何なのかを全く理解していないというのは明らかである。と同時に、国会が調査ではなく捜査をするようになれば、警察や検察の権力を国が抑えられなくなるということを意味するわけで、野党支持者の人たちも議会というものが何なのかよくわかっていないということになる。国会を最終的にジャッジするのは国民でありそのために選挙がある。これが捜査に変わるというのは、国民に変わって警察が政治を審判するということになるわけで、最終的に登場するのは一部の警察官や検察官が自分たちの都合のよいように政治を操れる警察国家であろう。しかし、警察検察待望論の裏には「国民が一つにまとまれない」という事情がある。つまり、日本には近代法治国家を成立させる単位としての国民は存在しないのだ。
こうしたとんちんかんな対応を外から見るのは面白い。我々日本人は近代的な法治国家というものを理解していないということがわかるからだ。一部の政治家と支持者たちが理解していないだけではなく、安倍首相も自らを「立法府の長」と自認してみたり独自の憲法に対する考え方を披瀝しており、上から下まで法治国家とは何なのかがよくわかっていない。
山口二郎という最近では左翼の応援団になってしまった学者さんは「安倍政権を放置することは近代国家としての日本の危機である」というようなTweetをしていた。だが、山口先生のいうことが正しければ安倍政権はもっと早く崩壊していたはずだ。憲法の解釈を歪め、安全保障の現状認識について嘘を吐き続けてきたし、統計数字をごまかして法案を通そうともした。しかしそんなことは国民にとってはどうでもよいことで、実際に支持率は全く下がらなかった。
では国民は何を見ているのか。それは「解釈」である。その意味で田崎史郎という機関は極めて重要である。つまり、どんなにデタラメでもその解釈が唯一無二であれば国民は納得してしまう。そもそも法治国家の筋など別に歪んでも構わない。自分の利害には直接関係がないからだ。しかし、その解釈が揺らぐことはあってはならない。つまり、田崎史郎さんがいないということは宇宙の崩壊を意味するのだ。
つまり、我々が注目すべきなのは「なぜ田崎史郎さんは重要なのか」という点であり、言い換えれば「そもそも国民が近代法治国家を理解しているように思えないのになぜ表向きは近代国家としての体裁が整っているように見えるのかということである。
田崎さんが担っているのは「政府の説明はこれであり、政府がそう言っている。ゆえにこれが唯一無二の正解であり宇宙の秩序である」ということだ。それは「これからの数十年は平成という世の中ですよ」といって時間を支配するのに似ている。田崎さんが出てこれないということは政府が正解を操作できないということを意味する。そして物語が作れない政府は政府としての機能を果たさないのだ。しかし、今後田崎さんが出てきたとしても国民は田崎さんを信頼しないかもしれない。なぜならば朝日新聞社が現物を持っている可能性があるからだ。
そもそも日本が近代法治国家ではないにもかかわらず近代法治国家を偽装していられるのは、日本にはそれとは全く別の統治原理があるからである。もともと日本は小さな利益集団の塊であり、それが階層的に積み上がっている。この利益集団のことをこのブログでは「村落」としてきた。
政治の利益集団は二つに分かれている。一つ目の利益集団は企業を統括する省庁である。この省庁がお互いに縄張り争いをすることでえ競い合いが生まれて成長が促されるというのが日本の成長の仕組みだ。このため日本の経済戦略は供給側に偏ったものが多い。企業は規制によってコントロールできるが、消費者を規制することはできないので利益集団が作れない。供給側は「お上がいうことだから」と国を信頼するので特定の方向に導くことができる。しかし、需要側にはこうした権威がなく、いったん「デフレマインド」と呼ばれる懐疑的な見方が広がるとこれを矯正することができない。だから日本には需要喚起型の経済政策が生まれないのである。
もう一つは戦前の軍部やGHQが作った職業集団だ。これを継続運営しているのは自民党である。例えば農協とか商工会議所とかかつての特定郵便局などがそれにあたる。こうした利益集団は派閥にまとめられて、派閥が競争したり均衡を保ったりすることで全体的な利益分配を確保してきた。
少し本筋からは離れるが竹中平蔵氏に代表される人材派遣業が村落になれなかったのは、彼が村落利益の私物化を画策してきたからだ。村落の活力の厳選は村人にあり決して仕組みの中にはない。その意味では日本の村落は西洋人が考える封建的な集団主義とは違っているのだが、戦後生まれの政治家や竹中さんたちにはそのことがわからないのだろう。
しかし、こうした小さな諸集団はともすれば内戦状態を作り出してしまう。これは利益集団がない政治団体がどうなったかを見ればよくわかる。社会党や旧民主党は利益集団なき政治団体なので「妥協して利益を守ろう」というインセンティブがそもそも存在しない。そこで空中分解して小さな団体になってしまった。現在の民主党の姿は、利益集団を失った未来の自民党の姿でもある。
内乱状態を避けるため、小さな利益集団は中心に利益集団を持たない核を作る。これが日本の中心にある「中空」の正体である。日本の中心には「私利私欲を持たない」真空の核がなければならない。そこには集団としての意味合いはないのだが真空が成り立つためには外側に分厚い壁が必要である。
ではこの真空はいったい何の役に立っているのだろうか。中心には二つの役割がある。第一にそれぞれの集団にありがたみを持たせる。さらにそれぞれの村落が争った時に仲裁者になるというものである。
戦前この「ありがたみ」を担っていたのは天皇であった。その中心にあるのは、海外の強国と比類する2000年以上の歴史がある皇室が日本を守護しているという物語なのだが、天皇にこれといった実権はなかった。天皇は調整する機能さえ持たず、それを実質的に代替していたのは元勲と呼ばれる藩閥の調整者だった。元勲がなくなってしまうと調整力は失われ、やがて軍部の暴走を招く。
戦後はこれが使えなくなってしまったので「近代の立派な国が採用しているらしい」民主主義が代わりに据えられた。これは単なる農作業が天皇の手によって高度に儀式化された宗教に変わって行ったのに似ている。この様式化された作業を守り続ける人だけが村落を調整する権威を帯びることができるのである。
しかし安倍政権は「民主主義のありがたみ」を自ら破棄してしまったようである。自ら人事権を握ることで村落共同体である省庁に首を突っ込んだ。人事が内閣に掌握されるとそれに従って「忖度した」人たちだけが美味しい思いができる。それは同時に「内閣によって排除されてしまう」人が出るということを意味している。こうした排除された人たちが内乱を起こさないようにするためには常時監視していなければならない。このために、日本の集団には新卒システム(同じ年次に入った人たちが一生お互いを監視しつづける)や居酒屋談合などの様々な仕組みが存在する。
この利益集団からあぶれた人たちが情報リークをしているのではないかと自民党の人たちは疑心暗鬼に陥っている。確かにそうかもしれないのだが、よく考えてみるともしかしたら朝日新聞はたまたま日付が同じで文言が異なった文書を目にしただけかもしれないし、そんな文章を見てすらいないかもしれない。実情はよくわからない。しかし、彼らがそう感じるのは当たり前だ。村落共同体の怖さをよく知っているのだろう。
さらに、このことによって安倍内閣は「憲法の解釈は自分たちで決める」という儀式にとって重要な役割を担えなくなった。何かあるたびに朝日新聞が「いやそれは違うよ、そこに証拠があるよ」と言い続けることになれば、自民党の政治的なありがたみは失われる。不遇な官僚たちは朝日新聞に駆け込めばそれが記事になるというルートを作ってしまった。前川元文部事務次官の「実名による失敗」を受けて学習したのだろう。
面白いのは、人々が「近代民主国家ごっこ」を続けるうちに、多くの人々が自らが近代法治国家なのではないかということを信じ始めているということだ。だがそれは幻想にすぎないので、日本は近代的な法治国家だと考えると説明できないことが多い。その裏には日本独特の村落共同体の束としての国家像が隠れており、私たちは誰に教わったわけでもないのにその行動原理に従って西洋とは全く違った形で国家を運営している。