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世襲政治家を禁止すべきと思う理由・廃止できないと思うわけ

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先日Twitterを見ていたら、内容は忘れたが小泉進次郎議員がとんでもないことを言っていたというツイートを見かけた。それを見て、世襲の政治家が最初は感じよく見えるのにメディアに露出したり政権の一翼を担ったりすると化け物めいて見えるようになるのはなぜなのだろうかと考えた。

Tweetの主は「当初は相手に合わせているからではないか」という点を指摘してくれた。納得の行く答えだ。しばらくこれを転がしていて、家庭内暴力を振るう人についても考えているうちに、世襲の政治家は害悪だなと思うようになった。と同時に世襲政治家はなくならないだろうとも考えた。

前回のエントリーでは、外からみると性格が破綻した「家庭内暴力を振るう人」にもそれなりのメカニズムがありそうだと分析した。それは群れが共感しあって安心感を得るというメカニズムの欠損だった。

世襲政治家の中にも彼らなりのメカニズムというものがあるのではないかと考えると、めちゃくちゃに見えていた彼らの行動原理がわかるように思える。 二世政治家たちは政治家の家で育つ。ということは有権者たちを「あの人たち」と思っているということになる。つまり、世襲政治家は有権者を代表しているのではないということだ。

一人ひとりの有権者はいい人たちなのだろうが、集団になると様々な要求を繰り出す化け物のように見えることもあるのではないかと思う。 世襲政治家たちはこうした環境に生まれ育つだけでなく、遺伝的資質においても生育においてもこうした環境に適応するはずだから「めちゃくちゃな要望であっても従う」という形で順応してゆくのだろう。

だから、世襲政治家は当初は愛想よく「いい人」に見える。それは特定の人たちではなく漠然と有権者に耳障りが良いことをいうからである。ところが、彼らが実際に仕事をしてゆくうちに相手は身内の人たちになる。

例えば河野太郎氏の場合、当初は原発に反対しており反核だったのだが、これも本人がそう思っていたというわけではなく「そうしたほうが受けが良いから」だったのかもしれない。だから政権の中に入るとその態度は一変する。河野太郎氏が相手にするのは政権の人たちであり、彼らは核の傘の下での平和を享受していたり、原発利権に恩恵を浴しているような人たちなのだから、彼らに沿った発言をするのはむしろ当然なのかもしれない。

外から河野太郎外務大臣の言動を見ていると支離滅裂だが、実際には彼が異常というわけではないかもしれない。小泉進次郎議員にしても特に地位を得ておかしくなったのではなく、そもそも常識など持ち合わせていなかったということになるだろう。逆に常識など持っていてはいけないのだ。

社会の粒がある程度揃っている場合には神輿に担がれる人は社会常識を持っている必要はない。しかし、社会の価値観がバラバラな世界ではそれではまずい。バラバラ内見をまとめながら自分たちなりの正解を見つけ出して行かなければならないからである。世襲政治家は意見を聞いてお神輿として反応することはできても、プロジェクトリーダーとして社会をまとめて方向性を提示することができない。これが、現代の日本で世襲政治家を禁止すべきと考える理由だ。禁止できないとしても親の選挙区とは違ったところから出馬すべきだろう。選挙区を一からまとめる活動を通じてプロジェクトリーダーとしての役割を自覚することができる。現在の政治家にはまとめる能力が必要である。

この話はここで終われば気持ちよく「世襲政治家はいけない」などとと言えるのだが、必ずしもそうはならないのが悩ましいところである。この考えを一晩寝かせたところ別の考えが浮かんできた。

付け加えて考えた問題は二つである。一つは自民党の政治家が世襲政治家と官僚出身者の二層構造になっているのはどうしてだろうかという問題だ。もう一つは官僚出身者が多く世襲の少ない民主党系の政治家がなぜまとまれないかという現象である。この二つに共産党と公明党はなぜまとまっているのかという点を合わせると、おぼろげながら日本から世襲政治家をなくせない理由が見えてくる。

民主党系の諸政党では、誰かが強いリーダーシップを発揮しようとするとからなず妨害者が出てくる。もちろん個人がイデオロギーを通じてまとまることはできるが、それは立憲民主党のような極めて少人数のグループになる。数を稼ごうと考えると「優秀な」官僚出身者を加えなければならないのだが、彼らは「政治家として役職につけるならイデオロギーや有権者との約束はどうでもよい」と考えており、また「どうしたら相手を妨害して自分が優位に立てるか」ということを常に考えている。

官僚組織にはこうした「組織政治」にたけた人たちがたくさんいるのだが、それでも官僚機構が崩壊しないのは新卒採用の終身雇用というピアシステムを取っているからなのだろう。トップに立つ人は一人だけであとは排除されてゆく。こうすることで足の引っ張り合いから内乱状態になることを抑止しているのだと思われる。だが、議員は当選すればそこから排除されることがないので、こうした抑止力が働かないのだろう。つまり、官僚出身の政治家は構造に支配されているということになる。ルールに則った戦争をしているという意味ではスポーツ選手に近い。だからルールがなくなれば「ガチの殴り合い」が始まる。

自民党でこうした問題が起こりにくいのはどうしてだろうか。それは個人の実力によるコンペティションを排除しているからなのではないだろうか。ここで持ち出されるのは「本人の血筋」である。こればかりは個人ではどうしようもないが「過去にお父さんやおじいさんに世話になった」という人がいてある程度(彼らにとっては)合理的な理由になり得る上に、世襲政治家自身にもコントロールができない要素である。世襲政治家は生まれた家を選べないのだからイデオロギーを選択できない。安倍晋三は岸信介を超えられないし、吉田茂に帰依することもできない。こうした「本人ではどうしようもない」要素を加えることではじめて自民党は組織を安定させているということになる。

いわゆる「左派」と呼ばれる人たちのなかで社会党系の人たちは細かなイデオロギー競争を行っており、結局イデオロギー部族に別れるしかない。これが民主党系がまとまれない原因である。だが、同じ左派でも共産党にはまとまりがある。社会党と共産党の違いは「マルクスという神」の有無である。共産党系の議員はマルクスに帰依しなければならないのだが、社会党はマルクスを捨ててもっと合理的なヨーロッパ型の社会民主主義を導入した。つまり、カトリックとプロテスタントのようなものである。

そう考えると日本人は絶対的な権力を外においてまとまる封建的なつながりか、本人では選択不能な村落的なまとまりなら作れるが、個人のアイディアや資質を基にした関係性は結べないという結論に達する。個人のアイディアが基になった社会ではルールも自分たちで決めなければならないのだが、それができないからである。もしくはルールを自分たちで決めようとして、自民党の改憲騒動のような問題を起こす。

これが世襲政治家がなくならない理由になっているのではないだろうか。

村落は変化させないための機能なのだから日本の政治が変化できないのは当然である。成長は変化のプラスの側面なのだから、このままでは日本は成長することはできないということになる。だが「世襲政治家をなくせば日本は成長できるだろう」ということにはならない。その根幹にあるマインドセットが変わらない限り、内側から変革を起こすことはほぼ不可能だろう。

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