扁桃体が生み出すブルーのインク

NHKの『病の起源』は鬱病を特集していた。
鬱病は扁桃体の暴走によって「ストレスホルモン」が過剰に分泌されることによって引きおこされる。この結果、脳が萎縮する。意欲などを司る部位が萎縮すると「体が鉛の鎧を着せられたような」感覚に陥る。このメカニズムは魚などの初期の無脊椎動物にも見られる。もともとは敵に対する防御メカニズムだが、ヒトは孤独や個人的な危機体験に加えて、仲間からの「情報」によっても扁桃体の活動が起こる事が確かめられている。ただし、ヒトには扁桃体の暴走を抑止するメカニズムもある。平等な社会では扁桃体の暴走は抑えられる、また、規則正しい生活や運動によって脳の神経組織が回復することが知られている。また、扁桃体に電流を流す事で暴走を抑止する治療法も考案されている。
前回のエントリーでは「幸せの黄色いインク」について考えた。比較的平等な社会で規則正しい生活を贈ると、ヒトの気持ちが安定するのだということが分かる。また「ブルーのインク」の正体は扁桃体の暴走らしい。外部からの脅威を認識すると「逃走」か「闘争」という選択がある。『病の起源』では逃走について考えていたが、実際には「戦う」という選択肢もあるはずだ。扁桃体が活発に活動すると、筋肉組織に信号が送られる。より発達した動物には「戦う」という選択肢もあるはずだ。サルを使った実験では「コルチゾール」というストレスホルモンの存在が知られているが、『病の起源』はストレスホルモンの名前については触れられていなかった。群れの下位にいるサルはコルチゾールに支配されていて、母親がコルチゾールに支配されると子どもにも伝わる。また「コルチゾール・不妊」で検索するとこの2つには関係があるのだという記述を見つけることができる。
『病の起源』には注意してみなければならない点もある。あのプレゼンテーションを見ると「平等な社会が理想だ」という風に結論づけられると思うのだが、実際には平等な狩猟採集型の社会はマイノリティだ。「理想的」ならば、なぜ平等で狩猟採集型の社会が維持されなかったのかという疑問が湧くだろう。
次に「平等」についても考察が必要なはずである。冒頭にIT企業で営業を担当していた人が鬱病を発症する場面が出てくる。ここから「自分の意志で働く事ができないと、鬱病を発症するリスクが高まる」という統計につながる。とても明確なように見えるが「なぜ、ITの営業職」が「弱者」のポジションにおさまるのかということは語られない。「なぜか」が分からないということは「解決ができない」ということだから、すなわち「ITの営業職には就くな」という結論が導き出されてしまう。
実際には組織に所属する人たちには「それぞれの期待値」があり、それが満たされないと孤独やプレッシャーを感じるのではないかと考えることができる。IT営業の場合には「エサを取ってきたら群れに取り上げられ、さらにプレッシャーが強い任務を与えられる」ということになる。つまり「営業活動はなんらかの罰」に過ぎないのだ。IT営業には「この商談をまとめたら、何かいいことがある」というのがモチベーションになっているはずだから、それが与えられないと苦痛を感じるようになるのだ。企業という組織が、従業員の期待に答えられなくなっているのではないかという可能性があるということになる。期待に対する報酬の多寡が「不平等」である。そして報酬がお金であるとは限らず、集団への帰属欲求のようなものが含まれるのだろう。
「不平等」な対応を受けた人が鬱病を発症するというのは分かりやすいが、彼らを搾取する人たちが同じような不利益を被るかどうかは分からない。『病の起源』の中では、不平等状態では、少ない利益を得た人も、多過ぎる利益を得た人も同じように扁桃体が興奮するということが語られている。ここから「平等な社会の方が良いですよ」という結論が仄めかされる。しかし、実際に搾取している側の人たちが扁桃体を活動させるかどうはか分からない。例えばITの営業職を搾取して獲物を取り上げる経営者たちは「自分たちは優秀なのだから、分け前が多くて当然だ」と考えるであろうからだ。時々、企業経営者がアルバイトに対しても「会社に帰属意識を持つように」とけしかけることがある。アルバイトも「帰属したい」という欲求は持っているだろうが、それは「搾取されつづける自由」を意味しない。つまり、搾取される側にとっては「不平等」でも、搾取する側にとっては「極めて正当」だということがあり得るのである。
今回はインターネットが悪口で満ちあふれ、人の悪口コメントを生産する評論家に需要があるのはどうしてかという疑問を考えている。その答えは「ブルーのインク」にありそうだというのが前回までの結論だった。この問題には「逃走か闘争」という観点があり、両方を考慮しないと結論が出ないようだ。敵の脅威に晒されないところで、相手を攻撃してダメージを与えることができれば「闘争」が成功するのである。これが匿名で相手を攻撃したり、悪口が書かれた雑誌を読んで溜飲を下げるという行為につながっているのではないかと思われる。それがある種の退避的な感覚(他人の問題を見ているときだけ、自分の問題を考えずにすむ)を含むと「逃走と闘争」を両方充足させることができる。
100x100こうした行為は「安価な代替手段」であり、弱い地位に置かれた人たちにとっての最後の頼みの綱だといえるし、それなしでは鬱病を発症するまで追い込まれる人たちも多いのではないかと考えられる。ただし、人間が他人の情報から扁桃体を活性化するということを考え合わせると「安価な代替手段」には大きな副作用がある。フィードバックが無限ループすることになるからだ。
そこからさらに発展させて考えると、ではインターネットで創造性を発揮したい人たちはどうすればよいのかということになる。当座の答えは「安価な代替手段」に巻き込まれるのを意識的に避けて「無限ループ」から抜け出す努力をした上で、お互いの期待値にできるだけ平等に応えるための場を作るべきだということになるだろう。

「幸せ」の黄色いインク

最近「ネットがつまらない」についてよく考える。知らない人と協同したり、問題解決のための議論ができる媒体なのだが、どうも人の悪口や不幸ばかりが盛り上がっているようにすら思える。ついつい、立ち上がり当時の状況を懐かしんだりする。一部の人たちの媒体だった当時のインターネットでは、簡単に珍しい趣味の仲間を捜す事ができたのだ。
こういうときは個人的な経験から考え直してみるに限る。
「人の不幸」や「転落」が面白い理由を2つ思いついた。1つは本人がそれ以上の悩みを抱えている場合だ。この時に他人の幸運を見ても面白くない。頭の中が「ブルーな」モードになっているし、他人の幸せよりもそこに行き着けない自分のことを直視しなければならなくなるからだ。他人の不幸を追いかけている時だけは自分の問題を感じなくてもすむわけである。もう1つは「喜び」などの感情が一切欠乏している場合である。良くわからないが、頭の中から「セロトニン」が抜けてしまったような状態である。この時には、幸せに関する感度が極端に落ちているが、不幸にたいする感度は上がっている。
感情をプリンターに例えると、そのプリンターにはいくつかのインクがある。1つは「心配や不安」で、もう1つは「幸福感」のインクだ。前者を青、後者を赤で例えたい。前者はブルーのインクに支配されている。後者は色そのものが抜けかかっている状態だ。
「他人の不幸」に対する感度が上がっているときというのは、目の前が「ブルー」に見える。心配事に支配されている状態である。これとは違った状態もある。世の中から「色」が抜けたような感覚だ。「ほとんどやる気がしない」ので、膝を抱えてその場に座り込みたいような気分になる。ここまで来ると他人の不幸さえ何の感情も呼ばなくなるだろう。「グレー」と呼んでもよい。だから、やはり「人の不幸に需要があり、それが持続する」という状態はある種の刺激が与えられている状態だといえるだろう。問題は外部からの刺激らしい。それに合わせて頭の中の彩りが変わるのだ。
他人の不幸に需要があるということは、グレーではなくブルーだということだ。どぎつい青の人もいるだろうし、ほとんどグレーでうっすらと青味がかかっている人もいるだろう。つまり、なんとか平常の状態を保っているが、ネガティブな感情に常に支配されているということだ。お金を出してまで人の転落や悪口が読みたいという人が多い社会というのは「ブルー」な社会なのだろう。
こうした状態から脱却するためには「快感」が役に立つ。快感は「グレー」を瞬間的に赤に変える働きがある。その間だけは脳が「ピンク」の状態に変わる。例えば、もう歩きたくないときに「目的地についたらシュークリームを食べよう」などという目的を置くと、その間だけ気分が軽くなる。しばらく砂糖を食べていない時に味わう砂糖の刺激というのは格別なものだ。実際に脳の血流があがり「しびれる」ような感覚すら味わえる。
ところがこの刺激はあまり長く続かない。また、その刺激には中毒性がある。日常的に摂取しつづけると、その内に刺激は効果を失う。また砂糖の取り過ぎは肥満や糖尿病の原因になる。つまり、刺激体験には副作用が存在する。いわば麻薬中毒のような状態だ。
さらに、最初はシュークリームを見ただけで幸せな気分になれるのだが、その内にそれだけでは足りなくなるかもしれない。「絵ばかりを見せられるのに一向に脳内に砂糖が入ってこない」ということを脳が覚えると、快感は発生しなくなり、代わりに怒りが生じる。
反対にブルーのインクからも幸せを感じることができる。つまり「それが避けられた」とか「ある行動を取った(取らなかった)」ので、嫌な思いをしなくてすんだというものである。これが他人の不幸を見て「ああ良かった」と感じる元になっているのではないかと思える。これにも副作用がある。これはやはり刺激性の体験なので、幸せが欠乏してしまうと、さらなる「不幸」を探してしまうのだ。その不幸は前のものよりもどぎついものでなければならない。
こうした「刺激」は人々の感覚をおかしくする。例えば洋服や家電を手に入れるのは「快感系」の体験だ。ところが物があふれると「手に入れる快楽」を得る事ができなくなる。そこで「人よりよいものを得た」というような快楽が欲しくなる。しかし、いつも他人が褒めてくれるとは限らない。そこで行き着いたのが「いつもより安く手に入れる」という体験である。
赤と青は「刺激性」の行動要因であり、刺激はさらに強くなる。この刺激には耐性限界があり、それを越えるとヒトの脳は壊れてしまうようにできているのではないかと思う。
幸せをインクの色で例えてきた。あと残るのは「黄色」である。どちらかといえば「のんびりしてているときに発生するほんわかとした感情」のようなものだ。洋服や家電でいうと「使っているときの満足感」である。
だが、よく考えてみると「どうやったらほんわりとした幸せに包まれる」のかは分からない。それは刺激性でないので「外部刺激的な条件」によって達成できるものではないからだ。また、マーケターは買わせるまでは熱心に活動するが、買ったあとのことは気にしない。もしかしたら「早く壊れるように」「早く破れるように」と願っている可能性すらある。そうしたら次が買ってもらえるからである。
ただ「人がグレーになる」のは、赤や青の刺激を求め過ぎ疲労を起しているような状態だと考えられる。結局「黄色いインク」が欠乏しているのだといえるが、普段からあまり関心を払っているとはいえないのではないだろうか。
100x100ブルーやピンクといった色は外から与えることができる。しかし、その刺激を与えすぎると中毒が起こり、効果が薄くなる。また、思わぬ副作用にも襲われる。一方、黄色いインクは外から与えることはできない。相手を観察して、どうやったら自発的に穏やかで満足した状態になるのかを観察する必要がある。いわば「共感」だ。
ブルーに彩られた社会はこの「共感」が苦手な社会なのではないかと結論づけることができる。

放蕩息子の帰還

新しい教皇はイエズス会出身だそうである。ということで、イエズス会の歴史を調べても良かったのだが、代わりに聖書のエピソードを取り上げたい。「放蕩息子の帰還」というお話である。レンブラントの絵でも有名だ。
兄弟のうち弟が、父親が元気なうちから「財産の分け前が欲しい」という。その財産を処分し、弟は遠くに旅立ってしまったのだが、結局散在してしまう。食べるのにも困った弟は使用人でもいいからと考えて父親に赦しを求める。父はその息子を無条件で赦すのだが、兄はそれを認めようとはしない。そこで父は兄をたしなめるという話である。
この話には前後に別の例え話があり「正しい律法に基づいている人は、神様がなさるように罪人をも赦さなければならない」ことを意味しているのだと考えられてる。当時のユダヤ教と達は、宗教的な生活を実践しない人たちを差別していたのだが、キリスト教は、病気の人、貧しい人、そして罪人たちをも救済の対象にした。
現代日本であれば、弟は自己責任で破滅したのだし、実家に戻ってくれば兄の取り分が減ってしまうだろうと解釈されそうな話だ。
放蕩息子の帰郷 – 父の家に立ち返る物語 – 』は、この説話とレンブラントの絵画に触発された著者が、弟の立場、兄の立場、そして父の立場について考えを巡らせている。
弟の立場に立つのは比較的易しい。誰でも罪の意識というものを持っていて、純粋なものに立ち返りたいと思いつつもいろいろ逡巡するものだ。そして、そうした罪を「無条件に赦されたい」と考えている。
ところが「兄の立場」について考えるのは難しい。こちらは奔放な弟をうらやましいと思いつつも、実際には旅立つ事ができなかった人である。正しい立場にあるにも関わらず「嫉妬」というネガティブな感情を抱える。どの人にも同じような感覚があるに違いない。正しい行いを実践している人が、なぜ罪悪感を感じ、叱責されなければならないのか。
著者のナウエンは司祭なのだが、ここから「自分が父の立場」つまり、司祭として息子たちを指導して行く事と無償で与える事の難しさについても考えている。父は無条件の許しを与える神だというのが、聖書の普通の解釈だろう。
キリスト教の伝統的な解釈から外れると、これを一人の人が抱える問題だと捉え直すことができる。ある人が、心の中に欠落感を抱えている。それはなんとなく「昔に旅立ったまま帰ってこない息子」のようなものだ。ところが、ある日その人は「放蕩息子」を自分の中に見つける。そのまま祝福してやりたいが、一方で「まじめに生きてきた部分」があり、どうにも納得できない。そもそも自分がやってきたことのうちにいくつかは全く人生の無駄遣いなのではないかと感じるかもしれない。これをどう捉えるべきだろうか。
この2人の息子は、その人が持っている人格の多様性のようなものである。つまり祝福されたあるべき性質というものはすくすくと伸びて行く。その人の全人格のように生育する。ところが、人にはそれだけでは満たされない部分というものがある。祝福された性質に隠れて伸びる事ができなかった「劣等な性質」というものだ。ある日それを見つけて「劣等な性格に立派な着物を着せてやり」祝福することにする。つまり、放蕩息子に立派な着物を着せてはじめて、全人格が揃い喪失感がなくなるわけである。こうした感情を人生の成長の時期に持つのは難しいに違いない。
この物語には「なぜ、弟は出て行かなければならなかったのか」が全く描かれていない。「単なる放蕩」として語られる。もしかしたら、立派な片一方の人格の裏で育つ事ができなかった別の何かがあるのかもしれない。しかし、それを無視する事はできない。なぜならば、それも含めて個別の何かだからだ。
そして、出て行ったものを再び迎え入れることが「全くムダな行為なのか」という点も、実は考察に値する。弟は「全く無駄だった」と考えているらしいが、出て行く前の状態と戻ってきてからの状態は、単なる現状復帰に見えても、異なる状態のはずだからだ。
このようにこの逸話にはいくつかの解釈の仕方があり、どれが正解ということは言えないのではないかと思う。
さて、ローマカトリックは、現在問題を抱えている。法を守っているように見えて、内部では権力闘争や性的な退廃を完全に排除すること事ができない。ヨーロッパではこのことに失望した人たちがいて、カトリック教会からの離反もある。一方、イエズス会のように「外に出て行って」現地の文化を受け入れつつ、独自の経験を積み重ねてきた人たちもいる。ローマから見ると「必ずしも純粋とはいえない」かもしれない。
ベネディクト16世は、1981年から教理省の長官としてヴァティカンにいた。一方、新教皇にはローマでの経験がほとんどないそうだ。しばらくの間、ローマカトリックは、名誉教皇と教皇という2名の教皇を戴くことになる。

ウィリアム・ジェームズ – 死にたくなったら読む本

ウィリアム・ジェイムズ入門―賢く生きる哲学という入門書を読んだ。この本を読むまで「ウィリアム・ジェイムズ」という哲学者を知らなかった。そのあと、ウイリアム・ジェイムズ本人が書いた本も読んでみたのだが、それほどピンとこなかった。にも関わらず、あえてご紹介しようと思う。
とりあえず、まだ死にたい程でもないなあという方は天才はいかにうつをてなづけたかがお薦めだ。うつは外面と内面を統合する機会であるという主張だ。ストーはこれを創造のモチベーションのひとつだと考えている。
さて、ウィリアム・ジェイムズに話を戻す。彼のポイントは簡単だ。考えるのをやめて、実感に任せるということだ。ポイントは簡単なのだが、これを実現するのはなかなか難しい。
ウィリアム・ジェームズは1842年生まれ。家族の期待に応えるべく医学を学び、めでたくM.D.の学位を取得して医者になった。彼はその過程で「魂の病」にかかる。どうやら医者になりたかったわけではなかったわけだ。さまざまな身体症状が出た後、神経衰弱になり、鬱を経て、最後に自殺を図った。この経験のあと、医者になるのをやめてハーバードで心理学を教えながら、最終的に哲学者として知られるようになった。
ウィリアム・ジェームズ入門は、ウィリアム・ジェイムズは「復活」をテーマにしているのだという。これは、伝統的なライフスタイルが壊れた後の文化的な混乱の最中で、人々が陥っている、無気力、消極性、自己破壊的なシステムを克服することを目指すと説明される。これが今回、この本をご紹介する理由だ。私たちの社会も今同じような状況に置かれていると考えるからだ。
もちろん、哲学者にお説教されたからといって「消極性」や「自己破壊」が克服できるわけではない。最近よく聞く「日本を成長させるために、みんなが起業家にならなければならない」とか「就職して社会的に望ましいステータスを得る事ができないのは、個人が怠けているからで、これは自己責任だ」という、奇妙な集団主義的個人主義が蔓延している。こうした近視眼に陥った人たちに、欠けているものが、ウィリアム・ジェイムズを読むことで見えてくるように思える。
ウィリアム・ジェームズがよりどころにしているのは実感だ。人生の意義のようなものを観念で証明しようとすると、内的な破綻を来たすと断言する。つまり考えても無駄だったということだ。しかし、そんな中で彼は「それでもわきあがってくる実感」を感じたのだという。
考え抜いて、何もかも期待が消え去ってしまった。それでも、人間はわき上がった実感の喜びを経験することがある。そこで、はじめてその存在が当たり前のものではないということを知ったわけだ。考えてみても無駄で、考えるのをやめた時に何かが見つかった。それはそこにあるのだから「それを信じることを決めよう」というところに自由意志の入り込む余地があると考えているようだ。
仏陀のストーリーの中にも同じような記述がある。あらゆる修行をこなしたものの心理は見えてこない。そこで差し出された粥のおいしさに目覚め、そこから修行を再開することで悟りに至ったのだった。
悩むほど考え抜くことが「ムダ」だったのか、という疑問も湧く。考え抜いたからこそ実感が大切という洞察を得たのかもしれないし、そもそも考えすぎない方がラクに生きられるよということなのかもしれない。悩みの中に答えはないのだが、その体験そのものはムダにはならないかもしれない。
さて、日本語版のwikipediaでウィリアム・ジェームズについての記述を見ると、日本の哲学者や夏目漱石などの文学者に影響を与えたという点に主眼が置かれている。また言葉が力強いので「起業」「モチベーション」「人生の成功」と結びつけた名言として語られることも多いようだ。つまり積極性を得るための言葉として利用されているわけだ。
しかし、ネズミ車のような環境で日々のノルマに疲れ果てているサラリーマン、自己実現ができないと悩んでいる女性総合職のような人たちが、ウィリアム・ジェイムズがどうしてこのような考えに至ったのかという経緯を抜きにして、結果だけ聞かされると「とりあえずがんばれ」のようなメッセージになってしまうのではないかと思う。これは、もうエネルギーが切れかけて睡眠もとらなくてはならないのに、カフェインの力だけで走らせるようなものだろう。生きる実感は頭で理解できるようなものではないのである。加えて、積極性は強制できるようなものではないだろう。
つまるところ、積極性や生の喜びというものは「努力をしなければ手に入らない」というものでもないというのがこの考え方のポイントだと思う。時には、逆に全てを手放したり、自分の内面を探ることによって得られる場合もあるということだ。
全てを自分でコントロールしようとするネズミ車から抜けてはじめて「自分が喜びを実感できるのは何か」ということを考えることができる。しかし、経済が縮んでゆく中でこうした決意をするのは大変な勇気がいる。今まで「誰に受け入れられるのか」ということだけを考えて生きてきたわけだから(コンカツ、シュウカツの活は「受け入れられるように動く」ということだろう)生まれてはじめて考える「自分が何をしたいか」かもしれないのだ。
ウィリアム・ジェイムズの本そのものはあまり面白くなかった。いったん脱却してしまうと、当たり前に思えてくるからだと思う。ウィリアム・ジェイムズのやり方は、同じような内的な葛藤を味わい、実感を心理学に昇華したユングに似ているように思える。この時代の実感だったのかもしれない。ニーチェは1844年の生まれだが、この人は考えすぎた末に悲劇的な死を迎えている。ユングはそれを体系化してユング派心理学の基礎を作るのに成功した。一方、ジェイムズは体系化を望みながら実現しなかったのだそうだ。
ユングとジェイムズに共通するのは「スピリチュアリズムへの傾倒」だ。ジェイムズの場合「全てを投げ出しても、生きる喜びは実感できる」ということを「神の恵み」と同一視している。日本人は幼少期に宗教体験を持っている人が少ない。だから、この種の体験に忌避反応を持つか、逆に埋没することがある。こうした事情も我々がなかなか「考えすぎる」ことから抜け出せない理由になっているのかもしれない。

なぜ私だけが苦しむのか

すべてをなくすというのは苦しい体験だ。最初は何が起こったかわからず、次に自分を責める。そしてこの苦難には意味があるはずだと考える。しかし物事は全く伸展しないし、ましてや元には戻らない。
そのうち友達(この時点では「かつては友達だった人」になっているのだが、まだ気がつかない)がやってきていろいろなことをいう。何かの報いだという人もいるし、自己責任だという人もいる。ある人は当惑して立ち去り、ある人はしっかりしろと叱りつける。誓ってもいいが、こうした言葉は全く何の役にも立たない。そして却って孤独だと言う事がわかるわけである。友達はかつて彼らが友達だったという理由で人を苦しめることになる。なぜ災厄は善良な人にも悪い人にも起こるのか。それは何かの罰なのか。それとも神様が与えた試練なのか。
宗教心のある人にとってはこれは厄介な問題だ。ましてや宗教を職業にしている – 例えばユダヤ教のラビ – ならその苦悩はなおさらのことである。クシュナーは、2子を授かったのだが、1人はプロジェリアという病気で10歳かそこらで亡くなる運命を背負っていた。アーロンは14歳で亡くなるのだが「この子どもの命には何か意味があったのか」「この子が死んでしまうのは神様が与えた罰なのか」などと考える。そして子どもが亡くなった後、神様は決して全能ではなく、すべての災厄が神から来るものではないという結論に達するのだ。クシュナーの解釈によれば、神は自然法則や人間の道徳的自由を越えて物事を支配するということはあり得ないのだという。
クシュナーもヨブ記を考察している。最終的には、ユングと違い神を受容する内容になっている。神様がすべてを支配し、人間が何も知り得ない世界(例えば動物がそうだ。彼らは死を知らないので、死について悩む事はない)と考え合わせ、悩みや苦しみがあっても自由があり得る人間の世界を受容しようとするのである。
苦しみは去らないのだが、ある日こんなことに気がつく。時間が来ればおなかがすくし、おいしいものはおいしい。時々本を読んで感動したり、泣いたりもする。つまり苦しみがそこにあるにも関わらず、人生には別のなにかがある。確かになくしてしまったものは戻ってこないし、意味があって失ったのではないかもしれない。だけど、そこにはまた別のものがある。例えば、キリスト教ではこうしたことを「恵み」と言ったりする。
クシュナーは、苦しみは「神様が与えた罰」と捉えてそこにとどまるのではなく「こうなった今、私はどうすればいいのだろうか」と考えるべきだと結論づける。
この結論に至るまでの過程にはいろいろな反論が可能だ。例えばユングは「神が最初にサタンと賭けをして…」といっている。やはり神が仕掛けた苦難にヨブが理不尽にさらされるというストーリーなので、神が関与しないという論にはちょっと無理があるかもしれない。しかしこの人の考えの道筋が重要なのは、それが人生を賭けて考え抜かれた結論だからだ。クシュナーが指摘するようにラビの中には神は間違いようがないのだと主張する人もいる。そういう意味でも「全能ではあり得ない」という言葉には重みがある。

私だけではない

しばらくすると実は苦しんでいるには私だけではないことがわかってくる。ユダヤ教にはスーダット・ハヴラアーという儀式があるそうだ。埋葬を終えて帰って来た人は自分で食事を作って食べてはいけない。誰かに食べさせてもらわなければならないのだという。クシュナーによればこれは「悲しみを分かち合う」という意味合いがあるそうだ。
クシュナーはかつては頼りない若いラビだったのだが、自らの苦しみを通じて多くの人と自分の経験を分かち合うことができるようになる。ただ、もし「頼りないラビでいる代わりに息子がずっとそばにいる」人生とどちらを選びたいかと問われれば、息子を取るだろうと言っている。だから彼は「人生は修行であり」「息子の死にも意味があった」とは考えない。ただ、苦しみを抱えている人とそれを分かち合うことができるようになっただけだ。