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なぜ私だけが苦しむのか

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すべてをなくすというのは苦しい体験だ。最初は何が起こったかわからず、次に自分を責める。そしてこの苦難には意味があるはずだと考える。しかし物事は全く伸展しないし、ましてや元には戻らない。
そのうち友達(この時点では「かつては友達だった人」になっているのだが、まだ気がつかない)がやってきていろいろなことをいう。何かの報いだという人もいるし、自己責任だという人もいる。ある人は当惑して立ち去り、ある人はしっかりしろと叱りつける。誓ってもいいが、こうした言葉は全く何の役にも立たない。そして却って孤独だと言う事がわかるわけである。友達はかつて彼らが友達だったという理由で人を苦しめることになる。なぜ災厄は善良な人にも悪い人にも起こるのか。それは何かの罰なのか。それとも神様が与えた試練なのか。
宗教心のある人にとってはこれは厄介な問題だ。ましてや宗教を職業にしている – 例えばユダヤ教のラビ – ならその苦悩はなおさらのことである。クシュナーは、2子を授かったのだが、1人はプロジェリアという病気で10歳かそこらで亡くなる運命を背負っていた。アーロンは14歳で亡くなるのだが「この子どもの命には何か意味があったのか」「この子が死んでしまうのは神様が与えた罰なのか」などと考える。そして子どもが亡くなった後、神様は決して全能ではなく、すべての災厄が神から来るものではないという結論に達するのだ。クシュナーの解釈によれば、神は自然法則や人間の道徳的自由を越えて物事を支配するということはあり得ないのだという。
クシュナーもヨブ記を考察している。最終的には、ユングと違い神を受容する内容になっている。神様がすべてを支配し、人間が何も知り得ない世界(例えば動物がそうだ。彼らは死を知らないので、死について悩む事はない)と考え合わせ、悩みや苦しみがあっても自由があり得る人間の世界を受容しようとするのである。
苦しみは去らないのだが、ある日こんなことに気がつく。時間が来ればおなかがすくし、おいしいものはおいしい。時々本を読んで感動したり、泣いたりもする。つまり苦しみがそこにあるにも関わらず、人生には別のなにかがある。確かになくしてしまったものは戻ってこないし、意味があって失ったのではないかもしれない。だけど、そこにはまた別のものがある。例えば、キリスト教ではこうしたことを「恵み」と言ったりする。
クシュナーは、苦しみは「神様が与えた罰」と捉えてそこにとどまるのではなく「こうなった今、私はどうすればいいのだろうか」と考えるべきだと結論づける。
この結論に至るまでの過程にはいろいろな反論が可能だ。例えばユングは「神が最初にサタンと賭けをして…」といっている。やはり神が仕掛けた苦難にヨブが理不尽にさらされるというストーリーなので、神が関与しないという論にはちょっと無理があるかもしれない。しかしこの人の考えの道筋が重要なのは、それが人生を賭けて考え抜かれた結論だからだ。クシュナーが指摘するようにラビの中には神は間違いようがないのだと主張する人もいる。そういう意味でも「全能ではあり得ない」という言葉には重みがある。

私だけではない

しばらくすると実は苦しんでいるには私だけではないことがわかってくる。ユダヤ教にはスーダット・ハヴラアーという儀式があるそうだ。埋葬を終えて帰って来た人は自分で食事を作って食べてはいけない。誰かに食べさせてもらわなければならないのだという。クシュナーによればこれは「悲しみを分かち合う」という意味合いがあるそうだ。
クシュナーはかつては頼りない若いラビだったのだが、自らの苦しみを通じて多くの人と自分の経験を分かち合うことができるようになる。ただ、もし「頼りないラビでいる代わりに息子がずっとそばにいる」人生とどちらを選びたいかと問われれば、息子を取るだろうと言っている。だから彼は「人生は修行であり」「息子の死にも意味があった」とは考えない。ただ、苦しみを抱えている人とそれを分かち合うことができるようになっただけだ。