ざっくり解説 時々深掘り

「アイヌ人など存在しない」について考える

Xで投稿をシェア

Twitterのタイムラインにアイヌについての情報が流れてくる。フォロワーさんの中に一人熱心な人がおりその人が流しているのだが、それがあまりにも多いのでまるで世界がアイヌ人について話しているように見えてしまうのだ。

これを見ていると「アイヌなどいない」と言いたがる人が多いことがわかる。よく観察していると、アイヌ問題は様々なメンタルモデルの上に構築された議論になっている。いわゆる被差別集落の問題に端を発する「同和問題」と同じように語られたり、アメリカ先住民族と白人移住者の問題と同じように語られたりしている。このメンタルモデルの問題が生産性のない議論につながっているようだ。

ここでアイヌ利権について考えることもできるのだが、それには触れないことにする。一度予算の使われ方を見たのだが、箱物に使われることも多いようだ。先住民族の問題を解決するためというより公共事業の口実として使われていることも多いのではという疑念はある。つまり、そもそも全部がアイヌ民族のために使われているわけではないのではないかと思う。

こうした利権を攻撃する人は、特定のセグメントの人たちを下に見ており、なおかつそうした人たちが「いい思いをする」ことに我慢ができないのだろう。

だが、アイヌについて考えることは実は日本人について考えることにつながる。前置きが長くなったが、これが今回言いたかったことである。

そもそも「日本人とは何か」という質問に答えられる人がどれくらいいるだろうか。当たり前のように存在する日本語を話す人たちだが、実際の定義は極めて曖昧だ。

例えばアメリカに住んでいる人たちはアメリカ人だが、実際には様々な人種から成り立っている。アメリカでこの例えがわかりやすいのはアメリカ人がいろいろな肌の色の人たちの集まりだからである。一方、日本列島(北海道から南西諸島全域)に住んでいる人はみな「日本人」と言える。だがその由来は一つではないということも知られている。つまり、日本人は民族名ではなく、実際には地域区分にしか過ぎないという言い方もできるわけである。

日本語を話すから日本人だろうという言い方もできるのだが実はこれも正しくない。英語を話すアメリカ人を「英語人」とは呼ばない。

つまり、アイヌ民族があるという立場とアイヌ民族が日本人に含まれるという立場は併立可能なのだ。つまり、日本人には様々なプロト集団がありそのうちの一つがアイヌ民族であるということである。

そうなるとむしろ問題になるのは非アイヌ系の人たちは何者かということになる。例えば本土に住んでいる人たちと南西諸島にいる人たちは同じ民族なのかとか、そもそも本土に住んでいる人たちは単一の民族なのかという問題が出てくるわけだ。

先日、読売新聞の記事を見かけた。

  1. 縄文人は極めて早い段階に日本列島に来て独自進化したようだ。
  2. 東京に住んでいる人たちの12%が縄文に由来する遺伝情報を持っている。アイヌと沖縄ではこの割合が高い。
  3. 出雲と東北には同じ系統の人たちが住んでいる。
  4. このことから日本は従来の周縁構造(もともと縄文系の人たちがいて、後から弥生系の人たちが渡ってきた)ではなく、三重構造になっているのではないか。

この記事のタイトルだけを見ると、日本人は独自に進化した固有の民族であるというように読めるのだが、内容は必ずしもそうはいっていない。実際に言っているのは日本人は縄文系の固有の血を12%しかもっていないということであり、つまり大陸と同じような征服民族がアイヌ系の人たちと同じような集団を征服して混血しただけとも読めるのだ。

にもかかわらず読売新聞がこのような構成になっているのは、日本人は中国人や朝鮮半島に人たちとは違うということを信じ込みたいからだろう。それは中国人や朝鮮人より優れているという思い込みを強化することにつながるのかもしれない。にもかかわらず実際にその固有性を保持した人たちの存在を否定したがる人もいる。控えめに言ってもめちゃくちゃである。

日本人というのはいろいろなアジア系の移民が混じり合って成立したのだと考えれば、アイヌというのは日本人の基底をなすプロト集団のうちで近世まで日本人に同化しなかった人たちだという言い方ができる。アイヌという民族集団は縄文系の人たちのうち最後まで北方に残った人たちだということになる。これが定まらないのは実は「日本人」に属する人たちのうち、本土系の多くの人たちがその出自を忘れているからなのである。

その意味では、アイヌは先住民族ではないという言い方も成立しうる。つまり、日本列島には多くの先住民族集団がおり、彼らと大陸に住んでいた人たちが混じり合って作られたのが日本人だからだ。アイヌはこうしたプロトタイプ的な日本諸民族の記憶を有しており、一方その他の日本人(アイヌから見ると和人などという言い方になる)はそうした記憶を忘れているということになる。

それとは別に「自分たちは固有の言語を持っている」という自意識があるからアイヌという民族集団は存在するという言い方もできる。例えば、日本人がある日誰かから「日本語を話す集団があるからといって日本人など存在しない」と言われたらどう思うだろうか。抵抗したくなっても当たり前である。日本人の遺伝的定義が曖昧だからといって、いったん成立した民族意識を否定することはできないのだ。

本来問題にすべきなのは、アイヌ系の人たちを含めた日本人全体がどこからきたのかという問題のはずである。日本語が現在のように、発音は太平洋系なのになぜか文法だけは朝鮮系の言語に似ている言語になったのかはよくわからない。アイヌ語はアジアからアメリカ大陸にかけて広がる抱合語としての側面を持っている。日本列島は太平洋系の開音節中心の言語と大陸系の膠着系の言語、さらにアメリカまで広がる包合言語の結節点にあたる。

つまり、真に日本人を大切に思う人たちであれば、アイヌ民族の伝統やアイヌ語を大切に考えるはずである。単に公共事業の題目として利用したり、自分たちより劣るものとして攻撃していいと考えているとしたら、日本人について関心がないということを自分から宣伝しているようなものなのではないかと思う。

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで