しばらく村落性について考えていて、村落について考えるツールボックスが増えたので、今回はなぜ「日韓の慰安婦問題が不毛な議論になるのか」を考えてみよう。
この問題について考える前にサンフランシスコの慰安婦像についてのレポートを読んでいただきたい。第一に、日本の議論が完全に自分たちの思い込みで行われていることがわかる。単にTwitterが思い込みで議論をしているのではなく、日本のテレビや紙媒体も同じように思い込んでいる。
もし、このレポートが正しければ慰安婦像が作られても、それが日本人の体面には何も影響を与えないことになる。この状況で慰安婦像について気にする人がどれくらいいるだろうかという疑問が湧き、それは韓国と難しい合意をしてまで感謝されもしないのに多額のお金を支払うのは果たして得策だったのかという疑問につながるのではないだろうか。
そこで気がつくのは、実は日本人が気にしているのは韓国ではなくアメリカだったのだということだ。
この問題を考えるとっかかりになる最初の要素は村落性である。ちなみに韓国語ではマウルと呼ばれムラという日本語との関係を指摘する人もいる。
韓国は村落性が高い閉鎖的な身内の論理を日本にぶつけている。この身内の論理は文脈に高度に依存しておりその中身を日本人が推察することはできない。一方、日本の側も韓国人が日本を過剰に非難することとサンフランシスコの慰安婦像を勝手に結びつけて「サンフランシスコの人たちも日本を非難する側に回ったぞ」と勝手に思い込んでいる。つまり、どちら側も身内で盛り上がっており、実際に何が行われているかということにはさほど関心がないのである。これが村落性の第一の特徴だ。
しかしながら、それだけではこの問題は解けそうにない。ここから浮かび上がってくるもう一つの問題は冒頭に確認したように、当事者間で話し合っているように見えて実はもっとも重要な人が議論の中に含まれていないという点である。日本がこの問題にこだわるのは、韓国人がアメリカにこの問題を「言いふらしている」と思っているからだ。国際社会で日本の評価が下がることを恐れておりその世界というのは主にアメリカのことなのである。実際に合意にはアメリカの仲介があったと言われており実は両国政府がアメリカを気にしていたことがわかる。
いずれにせよ、アメリカ人はまさか自分たちが焦点になっているなどとは考えない。例えばティラーソン国務長官は日本と韓国の間には感情的な問題があり安全保障上の懸念になっていると言っている。しかしティラーソン国務長官は「日韓がわざと自分の目の前で喧嘩をしている」とは考えていないのではないかと思う。つまり、この話はいつまでも終わるはずはないのである。
もう一歩踏み込むと、韓国人がこの構造を明示的に理解していないという問題もある。
この問題の落とし所がどこなのかを当事者に聞いても「誠意が足りない」とか「謝り方が悪い」などとしか答えないのではないだろうか。本当の目的はアメリカに同情してもらうことなのだが、当事者としては慰安婦について話し合っているつもりになっているので、いつまでもよくわからない説明が繰り返されることになるだろう。
この問題についてこれ以上考えるのは無駄なのだが、かといってこの構造を理解することが無駄とは言えない。もう一度、外交上の責任という観点からこの問題を整理してみよう。
世界が考える国際社会と日本や韓国が考える国際村はその性質が違っている。
世界が考える国際社会は国が一つの意思決定の単位として世界平和の維持に務めるというものである。この責任を持った単位が「大人」である。国は構成員として社会正義の維持に責任を持たなければならないというわけだ。つまり、集団は個人によって支えられている。
日本人や韓国人は「国の社会的責任」という言葉をあまり重要視しておらず印象の良し悪しによって世間の評価が変わるという世界観を生きているのではないかと思われる。つまり、日韓にとって世界は村である。
村人は集団の維持存続には責任を取らない。なぜならば、村は所与のものであって構成員によって変わることはないからである。しかし、国際「社会」はこの二国を無責任な大人になりきれていない国だと見なす可能性があるだろう。
例えば、アメリカは軍事力を使って世界秩序の維持をしたいと考えており日本に具体的な貢献を求めている。しかし、日本人は「世界の中でいい子でいれば良い」と考えるので、関係構築には熱心だが具体的な貢献をしない。責任は取らない代わりに北朝鮮の悪口をふれ回っている。これをみた世界の国は「当事者意識がない」と考えるかもしれない。
一方で、ヨーロッパは「核兵器の広がり」が具体的な脅威であると認識しているようだ。例えばローマ教皇は原爆の被害を受けた少年が弟を背負って焼き場で待つ写真を挙げて「日本は具体的に行動すべきだ」と言っている。ノルウェーはICANにノーベル平和賞を与えてその活動を支援した。背景に北朝鮮の脅威があることは間違いがないが、その中には北朝鮮の脅威に圧力で対抗する日米二カ国が含まれいるのではないだろうか。ところが、安倍首相はICANとの面会を拒否しローマ教皇の訴えも無視し続けている。
日本は国際社会に北朝鮮の悪口をいうことに夢中になっており、話し合いでもなんでもやって危機を回避しようという必死さがない。日本人は5年の間に安倍首相の無責任な言動に慣れてしまったが、国際社会がそういう受け止めをしてくれるという保証はない。これが外交上どれだけマイナスなことなのかということがわからない限り日本が世界から尊敬されることはないだろう。
これを首相が理解できないのは仕方がないのかもしれない。ならば国民が知らしめてやる必要があるのではないだろうか。