このところ、安倍政権がなぜ人を怒らせているのかということを考えている。安倍政権とネトウヨの仲間たちの戦略は簡単である。批判攻撃されたらそれを覚えておいて同じことを言い返せばいい。また批判に対応してやるのだといって自分のやりたいことをやればいいのである。
例えば最初の戦略は人権侵害について使われている。在日朝鮮人とかアイヌ民族を怒らせていい気分に浸りたい人たちは「自分たちには朝鮮人を差別する言論の自由がある」といったり、「在日特権デモ」をやって人々を不快な気分にさせたりする。どちらも、人権擁護派の人たちが用いる手法である。
二番目の戦略は「憲法学者が賛成しているから日本は集団的自衛権が使える」と言っておきながら、自衛隊を憲法に書き込みたい段階になって「いや、あの時みんな反対していたではないですか」と言いだす手法だ。
このやり方で議論に勝つことはできない。相手を心情的に動かして協力させることはできないからである。だが、安倍政権は勝つ必要がない。この「勝つ必要がない」というのが重要なところである。
普通の民主主義国では議会を説得して予算を獲得する必要がある。そしてそのためには税金をもらう必要がある。だから国民を説得するのである。特に戦争をやりたい国はその傾向が強い。例えばアメリカは身勝手な戦争ばかりしているように見えるが、表向きには国民への説明にかなり苦労している。これはアメリカの軍事費が巨大だからである。
ところが日本はこれをやる必要がない。第一に軍隊を持っておらず戦略が全てアメリカ任せだからだという事情がある。このため国防に関する情報はほとんど日本には開示されない。さらに、政府支出の半分程度は税金ではない。国債を発行すればお金が調達できてしまうからだ。もし国債の発行ができなくなれば、年金を含んだサービスの半分を停止せざるを得なくなるだろう。
ところが日本はなんとなく資金調達ができているので、国民もそれほど政治に関心を持たないし、政府も国民に協力してもらおうとは考えない。だからとりあえず逃げ切ればよいと考えてしまうのも当然のことである。
問題はなぜ税金を徴収しなくてもやってゆけるのかということである。政府が試算を持っているからだという人もいるし、国民の貯金が原資になっているという人もいる。が、実際のところはよく分かっていないのではないかと思う。われわれの無関心さは「なんだかよく分からないもの」の上に乗っかっているということは知っておいて良いと思う。
問題はここからである。政府はプライマリバランスを回復させる目標を先延ばしにしているが「プライマリバランスを正常化させるのをあきらめました」と宣言しない限り当座問題が起こることはない。
つまり、政府が少々の不正を働いたとしても別に国民の財布が傷むわけではないのだから、別に国会議員が少々不正を働いてもかまわないということになる。怒るだけ時間の無駄なので生活が維持できているのなら政治などに関わらずに楽しく過ごすという選択肢がある。ところが誰がどう考えてもこれが維持可能なものではないということは予測ができる。インバランスはいつかは崩れるだろうと考えるのが普通であろう。つまり、我々はいつかは崩れるであろうものの上に存続していることになる。つまり、これは一種のバブルなのである。
このバブルが資産バブルと違っているのは「いつかは崩れるだろう」ということを多くの人が予想しているという点である。政府批判をしている人たちは気がつかないだろうが、何も言わない人たちは「いつか崩れるだろうから、将来のために今使うのはだめだ」と感じているはずだ。だから、いったん得た所得や利権は誰も手放さない。資産バブルのような熱狂がないのはこのためではないだろうか。
もちろん、バブルが崩壊する前になんとかして正常に戻すという選択肢はありうるだろう。しかし、この場合には単に政府の不正をなくすだけという選択肢はない。同時に国債に過度に依存するという状態も脱出しなければならない。つまり、これは増税路線なのだ。税金を取ると景気は悪くなる。法人に課税すれば国外に逃げてゆくだろうし、国民から取れば消費が滞る。だから、国民は政府が失敗するのを黙認しなければならないし、それがいつまで続くのかがわからないということを認めなければならない。
野党が自民党を追及しつつ増税をほのめかすのはこのためである。だが、これは特に野党を応援する人たちからは評判が悪い。野党を応援する人は「政治家が不正をやめれば戦争と増税が回避される」と思い込みたがる。すると、野党は支持を得るために財政については話ができないので、政府の不正追求だけが問題になる。だが、もともと現在のスキームは不正を合法的に行うスキームなのでいつまでたっても成果が得られないということになる。
われわれは「ポストバブル」の時代に住んでいると認識している人が多いのだろうが、実は国債バブルの真っ只中を生きているのかもしれないということになる。バブルというのははじけてはじめてバブルだと分かる。資産バブルのときもそうだった。ということで、我々は自分たちがバブルを生きているということに気がつかないのではないだろうか。
その意味では政治などに関心を持たないで毎日を楽しく生きるというのも選択肢だし、Twitterなどで性自認対する不信感をつぶやきながら仲間を見つけるというのも選択肢だということになる。さらにつかの間の仮想的な優越感を得るために他民族や少数者をバカにするという選択肢もある。
私たちが生きていた平成はポストバブル期であり、新しいバブルであった可能性が高い。その平成もあと1年とちょっとで終わるのだが、平成は「なんとか逃げ切ったつかの間の平安期」として知られることになるのかもしれない。