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日本人はなぜ恫喝すると良いのか

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今日は「なぜ日本人と対応する時に、冷静な対応ではなく恫喝するのが良いのか」というテーマで書こうと思う。例えばこれはコールセンターでの対応に役立つ。コールセンターでは冷静に対応しようとは思わない方がよく、良い対応を得たいのなら頃合いをみて怒鳴ると良い。これはずいぶんとひどい話に聞こえるかもしれないがそれなりの理屈はある。かいつまんで言うと学校教育がよくない。

大人として、いや人間として、話し合いは理路整然と進めたいと思う。まずこちらの言い分を伝えてその裏にある理屈を説明する。怒鳴るよりもスマートだし、これが大人の対応というものではないだろか。

だが、記憶している限り、このやり方が功を奏したことはほとんどない。どうやら何かが違っているようだが、何が違っているのかはわからない。かろうじてわかるのは、理屈というものは相手に全く響いていないらしいということだ。理屈はどこかブラックホールのようにどこかに消えてしまうという決まりがあるらしい。

そもそも、日本人にとって理屈というのはそれほど重要ではないのではないだろうか。では日本人は何を大切にしているのだろうか。色々と考えて、日本人は「何をするか」ということにはあまり興味はなく、自分がどう待遇してもらえるかということを気にしているのではないかという仮説を立てた。

例えば、この仮説ではコールセンターには冷静に対応してはいけないことになる。コールセンターの人は奴隷なのだから、それなりに対応すればいうことを聞くのである。つまり、最初から威丈高に対応し、時には怒鳴って見せれば良いのである。この時のコツは本当に怒鳴らないことだ。アドレナリンが出すぎると冷静な対応ができなくなり、何に怒っているのかがわからなくなる。だから、ゴールと落とし所は立てておく必要がある。

これは「決めつけ」のように思えるかもしれないのだが、コールセンターは怒鳴られることに慣れている。それなりのマニュアルがあるようだ。つまり、最初から感情的になって怒る人が多いのである。

ここまではなんとなく経験的にわかるのだが、その仕組みの解明は難しい。そこでここからは車の例で説明したい。道具としての車の機能は走ってどこかにゆくことである。だから車を使う目的は「どこかに行くこと」そのものである。その目的を達成するためにはエンジンという仕組みがある。だから、車について話し合う時には、目的か仕組みが問題になるはずである。

あるとき車が故障したとする。故障したのはオイルが切れているからである。車のオーナーはどこかに行けないことに腹をたててディーラーを呼ぶかもしれない。そこで車のディーラーに文句をいう。ディーラーの人はオイルがないことを見つけてオイルを入れて問題が解決する。

しかしディーラーもオーナーも車の中身にまったく無頓着だったらどうなるだろうか。

とにかく、ディーラーは車を動かして見せなければならない。そこでディーラーは代車を準備する。そして、車を開けないでエンジンの中を丸ごと変えてしまうのである。この時「コストを度外視すること」がサービスになる。日本人にとってサービスとは「無料である」というのと同じ意味なのだが、無料なだけでは満足しない。客なのだから「コストを度外視して」奉仕してほしいと考えるのが日本人である。

機能を気にしないで待遇が気になるということは、いつの間にか「コストを度外視してサービスしてもらうこと」が目的になり、どこに行くのかということはどうでもよくなってしまうということだ。

さすがに車のメーカーではこのようなことは起こらない。いちいち新しい車を準備していたのではコスト的に見合わないからである。

しかしながら、家電メーカーではこうしたことが起こることがある。家電が壊れるとそのまま諦めてしまう人が多いのだろう。なんとなく人が諦めそうな修理費用が提示される。だが、その費用を出すというと、そのあとはどんな部品を変えても同じ値段で修理ができる。すると中身を全て取り替えて「修理終了」ということになる。だから、その部品を持って帰ると実際に使えたりするわけである。

海外の家電メーカーも同じような対応をすることがあるのだが、その背景では修理コストと製造コストの調整をしているはずだ。しかし、日本人は他部門間の調整が嫌いなので、製造部門とカスタマーサポート部門が話し合ったりしないので、お互いが都合のよいコストカットをはじめると収拾がつかなくなる。すると、家電部門から撤退してしまうのである。

誰かへのサービスは誰かのコストになる。そのコストを支払うのは黙っている人で、得をするのは恫喝気味に対応することである。すると恫喝することが合理的な選択肢になるので、恫喝者が増える。

ここまでは「ひどい話」ではあるが、家電メーカーが撤退する程度の話である。しかしながら、こうした行為が社会のコストになる場合がある。特に顕著なのが政治だ。ここでは比較的ましな「山尾志桜里」と「安倍晋三」という二つの事例を見てみたい。

今、テレビのワイドショーでは山尾志桜里議員が不倫相手と疑われている弁護士を顧問として雇ったということが問題になっている。どうやら「不倫をしていることは間違いがないのにそれを認めないのはけしからん」ということらしい。

まず目につくのは憲法や政策が全く問題になっていないということだろう。これは車のたとえでいうと「仕組み」に当たるので、視聴者には難しすぎると判断されているのかもしれない。憲法問題は政治の世界ではそこそこ議論の対象になっているようだし、国民生活に影響する大切な問題なのだが、ワイドショーの世界では全く取り上げられることはない。

では、山尾さんはどうすればいいのか。山尾さんは相手のニーズを満たしてやればよいのだが、その相手とは誰なのかというのが問題になる。多分、テレビや雑誌の記者は上司から「山尾は不倫をしているからその証拠をもってこい」と言われている。だが、山尾さんが記者の問いかけには答えないので、記者たちは問題が決着するまで山尾さんに張り付いていなければならない。だから、記者たちは怒っている。つまり、記者たちは自分たちのことしか考えておらず、社会にとって何が大切かということには一切興味がない。

すると、山尾さんがやるべきことは不倫について否定することではなく、テレビの記者を待遇して密着してもらうということだということがわかる。週刊誌の記者が憲法に関心がないということはなんとなくわかるのだが、実は不倫すら問題ではないのかもしれない。記者たちが問題にしているのは、いつまでたっても自分の仕事が終わらないことなのである。

しかし、これは女の視聴者、女の政治家、くだらないジャーナリズムの問題なのではないのだろうか。しかも別に誰かがコストを支払っているわけではないのだから、ワイドショーは好きなように騒ぎ立てれば良いのかもしれない。

ところが「待遇」の問題が大きなコストになるケースがある。それが安倍晋三首相のケースである。記者との関係が大切なのは田崎史郎さんを見ているとわかる。田崎さんが安倍晋三を応援するのは、政策にシンパシーを感じているわけではなさそうだ。田崎さんは昔から「安倍さんと食事ができるほど仲が良く」安倍さんを個人的に応援しているのである。

このように日本の政治の世界では「関係性」の方が重要であるのだと考えられる。つまり、男性社会の方が関係性には弱いのだ。山尾さんが間違えているのは「政治家は政策の中身で判断されるべきだ」という日本人としては間違った認識のせいだ。

安倍晋三議員は政権を手放してからも喜んで話を聞いてくれる右翼雑誌の期待に答えて「アメリカの押し付けた憲法はみっともない」と主張するようになった。これまでもそういう主張をしていたのかもしれないが、それをさらに過激化させた。

しかしながら、政権に返り咲いた安倍首相はアメリカの大統領と話をしている間にすっかり舞い上がってしまったようだ。今度は国際社会での喝采を求めて、いろいろなことを言ったりやったりするようになって行った。

日本国憲法は戦後すぐに作られたこともあり、すべての軍事的行為を禁止している。しかしながら、国が個別に自衛する権利だけは行使したいと考えて、限定的に穴を開けた。さらにアメリカの占領下で作られているのだから、軍事同盟という対等な国と国の約束事が前提になるはずはない。だから、集団的自衛が許されるはずはないという結論が得られる。

もちろん、これは日本が集団的自衛をやってはいけないということを意味するのではない。だがそのためには、憲法を変更する必要がある。

つまり、日本の憲法は集団的自衛権の行使を禁じているが、それではアメリカの期待に応えられない。しかし、安倍首相はアメリカに褒めてもらいたいので勝手に解釈を変えたり嘘をついたりしてなんとなく憲法違反の法律を通してしまった。安倍晋三個人がアメリカに褒められるために支払ったコストは「憲法の権威の低下」なのだが安倍首相はそれを気にする様子はない。

さらに、イバンカトランプ大統領補佐官に褒めてもらいたいがために、まだ予算措置も終わっていないのに「57億円支払います」と言い放った。確かにその場では気持ちよかったかもしれないが、財務省は「これを支払うためには他の予算を削らなければならない」と言っている。つまり安倍晋三がイバンカトランプ大統領補佐官を持ち上げるために支払った代償は国民福祉の低下である。

日本人の感覚からすれば「コストを度外視して無理な注文に応えてやる」というのは確かに最上級の待遇表現なのだが、トランプ大統領は「自分の実力で相手からディールを引き出した」と考えるだけだろう。今回の歴訪でトランプ大統領は「自国にはない歴史的な場所で皇帝のようにもてなされて食事をした」ことだったようだ。

しかしながら、安倍首相がこうした接待ができるのは、それを黙って支払う国民がいるからである。つまり、黙っていれば誠意が伝わるだろうなどと思ってはいけないということになる。

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