前原さんは「日本を再び二大政党制の国にしよう」といい民進党として集団自殺する道を選んだ。前原さんが集団自殺したのは当たり前でそもそも日本は二大政党制には向いていない。だが、それを説明するのは難しい。これまでは一人ひとりにイデオロギーがないので、それが政策集団としてまとまらないから二大政党どころか政策ベースの政治集団すら作られないというような説明をしてきた。だが、今回は少し違った解釈を見つけたのでそこから考えを広げて行きたい。
この二大政党制が作られないことを考えると、同時に一大政党(つまり独裁や全体主義)も作られないことがわかる。それは有権者の振る舞いに関係している。
日本にはいわゆる保守として知られる山が一つあり、それとは別のリベラルとして知られる小さな山があるとされている。二大政党制が成立するためにはいろいろな価値観が正規分布している必要があるが、日本では正規分布しないので政党が中央に寄るインセンティブがなく、政策が収斂して行かないのだという説明という説明を見つけた。イメージとしては線上に2つ山があるものを思い浮かべてもよいし、平面上に2つ山があるのを思い浮かべてもいい。
なるほど、と思わせるところがある。だがこの説明ではなぜ日本には山が二つあるのかは説明されない。
ということで、ここからは別の考察点た必要だ。それは日本からファックスがなくならない理由である。諸外国では一世代前のものとされるファックスだが日本では現役で使われている。このファックスは変われない日本の象徴として引き合いに出される。ファックスがなくならないのはこれを使っている人たちが一定数いるからだ。
実際のコミュニケーションツールの使われ方を見ていると面白いことに気がつく。例えばガラケーがなくならず、ガラケー型のスマホが登場するというのがその一例である。
例えば若い嫁世代はスマホでLINEを使ってコミュニケーションを取る。幼稚園のお知らせなどもLINEで写真を撮影したものが回ってきたりするようだ。だがこれを義母世代は受け取ることができない。彼女たちはファックスと固定電話世代だからである。
お互いのどちらかが歩み寄ればよいのだが、彼女たちは決して交わらない。だからお互いにコミュニケーションが取れないので文句ばかり言っている。つまり、お互いを世界の中心だと考えていることになる。
一方、その中間にはガラケー・メール世代がいる。彼らはスマホは知らないが、ファックスは古臭いと思っている。SNSも知らないので連絡はメーリングリストでで行う。空メールを送ってもらうとメールアドレスが収集できるということは知っているが、背後にある仕組みはよくわからない。だから、相手が空メールに慣れていないとなると大騒ぎする。そしてSNSについてゆけないということは無視(というより理解できないのでなかったことになっている)した上で、ファックス世代を「メールの使い方を知らない」といってバカにするという具合である。
こうした違いはいくつもあって、細かな山がいくつもできている。スマホ世代はPC利用者を「フリック入力もできない遅れた人」と嘲り、PC世代は狭い画面でしか物事を捉えられないかわいそうな人という。
共通するのは、お互いが自分たちこそが世界の中心だと考えておりお互いに歩み寄る姿勢を全く示さないということと、一旦獲得した常識に一生支配されるということである。さらにお互いの種族には蔑視感情がある。
ではなぜこのようなことが起こるのだろうか。
コミュニケーションの本質は「相手に何かを伝える」ことだ。そのためにはいろいろな手段がある。例えばスマホであってもガラケーであっても「メール」というテクノロジーは変わらない。しかし、表面上のインターフェイスは違っている。さらにSNSといっても基礎技術はすべて掲示板などの既存のテクノロジーの集積である。
これをまとめるとある仕事を達成するためにはそれを実現するツールがあり、そのツールはいくつかのテクノロジの集積であるということがわかる。つまりコミュニケーションツールには多層構造があるということになるだろう。
コミュニケーションのコアは伝えるという仕事なので、その仕事そのものに着目していればあるツールから別のツールに移ることはそれほど難しくないはずである。パソコンもスマホも同じコンピュータなのでスマホとパソコンは同時に使えるはずだ。しかし、インターフェイスこそがコミュニケーションの本質だと考えてしまうと、いったん獲得した世界から離脱できなくなる。パソコンをメールで飛ばしてファックスを送ることもできるのだが、ファックスはファックス機というインターフェイスと印刷が必要だと思い込むことになるとファックスはなくならない。
ではなぜインターフェイス依存が強いのか。それは背後にある「より本質的な」ものを理解しなくても操作が丸暗記できるからだろう。電話は受話器を取ってボタンを押せば話ができるが、LINE電話だと画面上のまる(高齢者にはこれがボタンのメタファーと理解できない人が以外と多い)を押すという動作には対応ができない。
とりあえず使い始めることができるという意味ではとても「効率的な」やり方であると言える。しかし、いったん獲得した知識には汎用性がない。実はこれは知識処理の問題なのである。
同じようなことは例えば仕事にも言える。ある会社で仕事のやり方を覚えると、別の会社では役に立たない。これは知識のローカル性が高く汎用性が低いのだと一般化できる。
最初の疑問に戻ると「政策が正規分布する」ということは、個人の中にイデオロギーがあり、それが少しずつ異なっているという世界である。だが日本の場合には、汎用性のない知識を経験ベースで覚えるというやり方をとっている。そこで、その人が最初に触れたイデオロギーが基準になり、固着化し、汎用的な民主主義の知識を持ち得ないのだと推論することができる。
つまり有権者は政治リテラシーのないバカではなく汎用性のない知識を持った人たちなのである。もし仮にバカならば、却って固着する知識がないので粒状化して流される可能性があるが、ヘドロのように張り付くので全体主義に犯される可能性は極めて低い。
日本には個人の考え方というものはなく、それぞれの世代で見た政治状況によって政治的態度が固着するということになる。たまたま世代を例にあげたのだが、実際にはいろいろなセグメントがあり、細かな集団がいくつも存在するのではないかと考えられるので、実際の地図は二次元や三次元ではないかもしれない。
これは砂を落としてみるとわかる。砂が正規分布する(実際には二次元で広がるので山ができる)ためには砂がさらさらでなければならない。だが、実際には粘度が高いので砂つぶにならず、ぼたぼたとした山がいくつもできる。だから中央に収斂するということはなく、バラバラな山がいくつもできることになるだろう。
ここまでは二大政党制が日本で根付かないという理由を述べてきたのだが、これは全体主義にも当てはまる。全体主義とはバラバラになった個人が誰かの先導の元に一つの結論に殺到するという図式である。だが日本では集団がヘドロのようになって詰まってしまうので、一つの結論に殺到するということはありえない。ゆえに日本では西洋のような意味では全体主義が起こる可能性も低いのではないかと思う。
第二次世界大戦当時の日本は全体主義のように見えるのだが、実際にはヘドロのようになってつまったパイプが溢れてしまったと考えるべきなのではないかと思う。誰も状況が動かせないので、成り行きのままで動いてしまい、最終的に破綻するという状況である。
と、同時にある程度希望の党の行く末も予想できる。政党が全体主義化するためには、最初から議員を育てなければならない。だから自民党、公明党、共産党は全体主義化する可能性がある。粒が揃っており同じように振る舞う可能性があるからだ。同じような理屈で松下政経塾のようなエリート集団も全体主義化しかねない。
一方で、民進党は寄り合所帯だったので、ヘドロ化した細かなグループが相互理解できないままでなんとなく文句を言い合っていた。希望の党は塾を作って候補者を洗脳して行けば全体主義政党になれたかもしれない。経験を統一すれば粒状化した個人が作れるのだ。しかし、寄り合い所帯なので全体主義化しない。選挙の公認を得るためには簡単に踏み絵を踏むかもしれないが、それが長続きすることはないだろう。なぜならばそもそも経験によって持っている「政治像」がそれぞれ異なり、それを政策のような理念で束ねることができないからだ。
こうした予想は極めて観念的なものだが、実際には現場の人たちと話してみるとよくわかる。2009年に民主党の田嶋要事務所で「地方分権」について聞いたとき、彼らはまともに答えられなかった。集まってきているのはITバブルで後から群がってきたような人たちばかりだったので、ああこれは危ういなと思っていた。すると藤井元財務大臣が「税源がなければ謝ればいい」などと言い出して三年で政権が瓦解した。政策は立派だったが、単なるマーケティングフレーズの寄せ集めに過ぎなかったのだ。
同じように今回も地元の奥野総一郎民進党事務所に連絡したところ「いそがしいらしく一週間ほど連絡が取れておらず、ニュースでしか情報がない」と言っていた。しかし今朝になって小西ひろゆき参議院議員(この人も千葉市に事務所があり、非民進の市民ネットワークとも連携していた)が「一丸となって頑張る」というツイートをしていた。地元は置き去りになっており、永田町だけで勝手に「一丸になっている」ことがわかる。一方、維新は「自己責任政党」なので浪人している候補者を助けることはないので、経済力がなくなった人から脱落して行く。隣の千葉1区では維新から自民に移籍した現職が「公認してもらえない」ということが起きている。つまり、希望の党が独自候補を立てられるめどは全くないので、民進党の組織を「活用」せざるをえない。こうした混乱が修復されることはないはずで、遅かれ早かれ瓦解することになるだろう。