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小池新党(希望の党)と全体主義

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100分de名著「全体主義の起源」の最終回は普通の人がどのように全体主義に染まってゆくかを分析していた。人が集団で悪に染まる時、その構成員は全て悪なのではないかと考えてしまいがちだが、実際にはそうではなかったということだ。と、同時にそれは全ての人が悪になり得るということでもある。

のちにイスラエルで裁判にかけられ絞首刑を言い渡されたアイヒマンは、たまたま就職した部署がユダヤ人を「効率よく」収容所に送る仕事をやっていた。特に悪意があったわけではなく、法律で決まっているからという理由で淡々とユダヤ人を「処理」していった。自分が送った人がのちにどうなるのかということは知っていたが、裁判では、それは自分の管轄外なので知らないし責任も持てないと主張した。

アーレントはこれを観察し「アイヒマンに罪があるとしたらそれは複数性をみとめなかったことだけだ」と結論付けた。つまり、アイヒマン自体は法律と仕事に従順な一般人であり、その本質が悪というわけではなかった。アーレントはこのことでユダヤ人コミュニティからは非難されることになる。やはり被害者としては、自分たちを抹殺しようとした人たちは絶対悪であると考えたくなるのだろう。

番組では語られなかったが、ここにも競争があったようだ。つまり、アイヒマンの動機は出世競争に勝ち抜くことだった。「自分のやったことでユダヤ人が死ぬかもしれない」という予想もできたのだが、出世欲の方が勝ってしまったのだろう。番組ではミルグラム実験を持ち出して「役割によって倫理観が吹き飛ぶ」ということをほのめかしているが、アーレントがこのような感覚を持っていたかは不明である。

このことから幾つかのことがわかる。ユダヤ人問題の分析では良く取り上げられるテーマだ。

第一に、人間は特性は役割があるとそれに従う行動を取ってしまい、相手の苦痛がわからなくなる。ミルグラム実験はよく引き合いに出される。先生という役割を与えられたことで生徒を罰することに罪悪感を持たなくなってしまうのだと説明されることが多い。

だが、これは情報が限られた状態で人間が規範に従ってしまうということを意味している。つまり、先生もまた実験の主催者からインストラクションを与えられているだけである。つまり、先生が行使している規範は実はその人の内面からでてきたわけではない。

特に、拠り所としての規範を失った人は、積極的に誰かが提示した法則に従いたくなる。今回は出てこなかったが「自由からの逃走」として知られる概念である。フロムは、社会規範が失われてしまった状態でナチスが正解を与えたことでドイツ人がユダヤ人虐殺という狂気に走ったのだと説明している。

失業で途方に暮れていたアイヒマンは「提示された規範に従うと出世できる」という答えを提示されたことで、ユダヤ人を効率的に収容所に送るようになり、多くのユダヤ人を死に追いやったということになる。

これを日本の状態に重ね合わせてみるとどのようなことがわかるだろうか。まずネトウヨというのは崇高な日本に従うということの他に、権利を主張する弱者や多様性を要求する厚かましい外国人を罰するという原理で動いている。社会主義者や共産主義者は弱者でありこれはいくら叩いてもいい。女性は生意気だから圧力を加えておとなしくさせるべきである。これはある種の与えられた社会的構造だが、実際には根拠がない。

だが、それだけではネトウヨのネトウヨ性は発揮されない。誰かが先導して「これがあるべき姿である」と示唆してやる必要がある。1990年代からのネトウヨの動きを感覚的に見ていると、まずは終身雇用が崩壊し目的を失ったサラリーマン向けの週刊誌から生まれ、高度経済成長に生きがいを感じていたが定年退職したとたんにやることがなくなった老人向けの雑誌に波及し、最終的に政治運動へと波及していった。いわば絶望した男たちの最後の拠り所であった。

しかし、この流れはあまりにもあからさまなので各地で大きな抵抗が起きている。このあからさまさがかろうじて抑止力になっている。さらに、実は大きな物語は利用されただけで、実際に起きていることは特区などを使った権力の私物化だった。これにうすうす感づいていながら認めたがらないネトウヨの人は多いのではないだろうか。

一方、いわゆるリベラルな人たちは例えば「原子力発電所は絶対に許せない」とか「戦争は絶対にダメ」と主張している。その他の価値観を認めないし、さらにその理想に向けて相手を説得しようという気持ちもない。単に「その価値観こそが絶対なのだから」と相手を丸ごと否定してしまうだけだ。しかし「なぜ戦争はダメなのか」と聞いても答えがない。それは彼らの価値観も実は内面的な拠り所をまったく持っていないからである。

こうした頑なさは実は複数性の否定になっている。これが「〜はいなくなってしまえ」という論につながり、Twitterアカウントを凍結されたりするのである。現在、かろうじて抑止力になっているのは、こうした頑なさは多くの人に嫌われてしまうからである。つまり運動に広がりがないので、局所的な騒ぎになっている。さらに日本人は社会主義を下賎なものと考えている。社会主義的思想に傾倒するということはボロを着て街を歩くようなものなのだ。

仮にお金持ちがボロを「ストリートファッション」と再定義するとどうなるだろうか。これはファッションとしては受け入れられるはずだ。このブログでは社会主義的な勢力がこれを実現してくれるのではないかとほのめかしてきたのだが、実際にはそうした動きは起こらなかった。社会主義勢力が民進党に合流することで実現するかに見えたのだが、彼らは自己保身の闘争を繰り広げただけで有権者に目を向けることはなかった。

今起こっていることは「問題を解決するつもりなどなく、単に自分が上にのし上がりたい人」がこれをファッションとして利用するという動きである。希望の党という名前がついた小池新党は「改革型保守」というわけがわからないスローガンで動き出すようである。改革と保守は対概念なので、二大政党制のもとでは「どちらかを選ぶ」ということになるべきである。

だが小池さんは「私が首相になれるなら別にイデオロギーなんかどうでもいいのよ」という人であり、なおかつ「私に一貫性がないことはわかっていて、職を途中で投げ出すことも知っているのに選ぶあなたが悪いのよ」という割り切った考え方を持っている。だからこの二つの概念を同時に扱うことができる。これが彼女の言う「アウフヘーベン」だ。保守も革新も彼女にとっては、選挙の票田の大きさを示しているに過ぎない。使えるときに使って、都合が悪くなってしまえば途中で投げ出してしまえばいい程度の約束なのだ。

しかし、マーケティングを優先するということは、現実をおろそかにするということである。例えていえば、ニュース番組のために政治を演出するようなものだろう。台本抜きに政治は行えなくなるので、議員が一人ひとり有権者の声を聞いて課題解決するということはできなくなる。小池新党は本質的に、小池さんの独裁にならざるをえない。独裁という言い方が悪ければ、プロデューサーシップを持った演出家が全権を握っている体制である。

プロデューサーシップを使えば、例えば選挙では自民党を「しがらみ政治だ」と批判し、公明党を利用して自民党との三党連立を模索することもできる。つまり、公明党をお神輿として使って、自民党と肩を並べることもできるわけだ。希望の党は「自民党の補完勢力だ」などと考えている人が多いようだが、そもそも政策がないので補完勢力という見方自体が無効なのだが、有権者は「勝手に期待した」だけなので、選んだ人が悪いということになる。

だが、そのメッセージは口当たりがよく、そのために有権者が支払うべき対価も示されない。そこで有権者は勝手に「自分の理想が実現されるかもしれない」として期待してしまう。つまり、日本のポピュリズムはもう一段階進んでしまったことになる。だが、終身雇用体制が崩壊した後どうすれば幸せになれるかわからない保守と、数々の運動に挫折し社会的に蔑視されてきたリベラルが同時に惹きつけられる可能性は極めて高い。

旧来型の全体主義については警戒心が働くので、それが無条件に社会に広がることはないだろう。だが、全体主義というのは人間の弱さに寄生するようにして忍び寄ってくる。リベラルや改革という言葉が実は全体主義の新しい入り口になっているように思える。

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