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日本の民主主義はどのような形で破綻しているのか

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奇妙なツイートを見かけた。民進党を離党した長島昭久衆議院議員が、日本の大学は最高学府かローカル型の職業訓練校のような学校に二極化するしかないのではないかと言っている。これをみておかしいなと思った。

ちなみに元ネタは猪瀬直樹の高等教育の無償化はやめたほうがよいというものなので、議論としては破綻している。猪瀬さんは日本の大学はくだらないと言っているに過ぎない。

長島議員はアメリカでの経験があるのでアメリカの学校について知っているはずである。アメリカの大学は社会人教育を行うエクステンションセンターを持っていて職業訓練的なことも行っている。これら2つは同じ大学でも共存可能であり、必ずしもどちらかを選択しなければならないということはない。にもかかわらず、長島さんはなぜ「二極化するしかない」と言っているのだろうか。

この<議論>の背景には自民党の地方出身国会議員の事情があるのではないかと思った。地方の大学は消滅の危機にある。学生が都市に集まるからである。学生が都市に集まるのは若者がやりたい「自分で考えることができる魅力的な」仕事が減っているからだ。アルバイト型の仕事か介護しか職がない。このため自民党政権は都市の大学の定員を社会主義的に抑制している。しかしそれでも消滅の危機がなくならないので、今度は職業訓練校に使う公金を大学に動員したいのだろう。

ではなぜ東京出身の無所属議員の長島さんが、元ネタを曲げてまで自民党に与するような<議論>をするのか。それは長島さんが不安定な身分を脱却して自民党という組織に入りたいからであろう。つまり、そもそも学校についての議論をするつもりなど最初からなく、政策議論は議員の生き残りのための道具に過ぎないと考えられている。

うまくいっている職業教育には、少なくともアメリカとドイツの二つのモデルがある。

自由主義経済のアメリカ型の学校制度を入れるとすれば、仕事のない土地には学校はできなくなる。例えばロスアンジェルスにはエンターテインメント産業があるので、それに付随するクラスが豊富にある。ここには「生態系」があるからだ。まずは仕事があり、さらにエンターティンメント産業で働く様々な人が先生として生徒を教えている。例えば、UCLAは映画やコンピュータグラフィックスのクラスを社会人向けに提供している。新しいキャリアを目指す人はこうした夜間の学校に通い、インターンシップを経てキャリアチェンジを目指すのである。UCサンフランシスコやUCバークリーに同じようなクラスは作られないかもしれないしUCリバーサイドにはオレンジの育て方の学部はあっても社会人向けのクラスはそれほど多くないかもしれない。このやり方は産学協同と市場経済の組み合わせであり効率が良いのだが、地方に利益誘導できないので自民党議員には旨みがないだろう。

一方でドイツ型では、職業がある程度必要なスキルを固定しているので、職人の養成が容易だ。いわゆるマイスター教育というものだ。これをやるためには産業が協力して職業の標準化をやる必要があるが、これは職人手動なのではないかと思う。これが標準化できれば賃金の透明化もできるというベネフィットがある。職人教育に興味のある人はドイツのマイスターシステムを調べてみるとよいのではないだろうか。

日本でドイツ型の産学連携が進まないのはどうしてだろうか。まず、強い労働者組織を受け入れず、なおかつ企業も「どのような労働者を育成したいのか」がわからなくなっているからだろう。企業は「自分の頭で有望なビジネスを開発してくれて」なおかつ「24時間文句を言わず安い賃金で働いてくれる」というような人材を求めているが、これは両立不可能なのだ。

もともと企業は自前で労働者を養成していたので大学にそれほど期待する必要がなかった。これがうまく行かなくなったのは、人件費削って<経営改善>したからだろう。自前で教育をしない間にどのように人材育成をしていたのかがわからなくなってしまったのではないだろうか。

日本の職業訓練は「教えられることを教える」というものなので、実際の現場ではあまり役に立たない上に、職場でスキルの標準化が進んでおらず(ジョブディスクリプションすらないのが一般的だ)外部からの人材を受け入れることができる仕組みになっていない。

いずれにせよ教育制度を語るときには、産業から学問に対する知見がある程度必要だ。こうした知見は学術的に得られるわけではなく、実務を経験した人が担当する必要がある。ましてや、他人の人生にあまり興味がなく、次回当選できるかで頭がいっぱいの政治家が140文字程度で語れるようなものではない。

社会全体がどのような人を誰が育てればいいかがわからないのに、なぜか制度の問題が「〜しかない」で語られることになるのか。そこには、議員という身分の不安定さがあるのではないかと思う。

自民党の議員は二世が多いので議員をやめてしまうと家業がない。そのため、地域に犠牲を強いるような抜本的な改革はできず、地元に利益誘導しつづけるしかない。こうしたしがらみのない議員も「空気」には逆らえないので、このした利益誘導型の政策に与することになるのだろう。

このように、日本の職業は半ば身分制のような性格を残している。正社員身分で雇用されればそこに止まることができるが、職人階層のようなものはなく、すべて奴隷のようなものである。奴隷がスキルを蓄積するということはありえないので、奴隷をどう教育するのかという議論は本質的に行われない。

ところが国会議員は専門職でありながら恒久的な身分ではないというかなり特殊な職業になっている。つまり、フリーランスの統治者というよくわからない身分担っているのだ。健全な労働市場がある国ならば、専門性を生かしてサードキャリアを作ることができるので、議員という職業にしがみつく必要はなくなる。しかし、日本では国会議員であるときは「先生」と尊敬されるが、いったん落選すると奴隷身分に落ちてしまうというとても過酷な状況がある。

これを修正するのは、国会議員を貴族のような存在にするか、非正規の人たちを奴隷のように扱うとのをやめればいいということになる。つまり、職業教育と彼らが置かれている境遇の問題は実は地下でつながっているのだが「階級」としてみているので話がいたずらに複雑化しているのだ。

こうした議員のアンビバレントな態度は家業ではない政治家たちを悩ませている。家業である政治家は政治家というものがどのようなものかというイメージがありそれなりに対処するのだが、そうでない人は「先生」になった瞬間に落選時のギャップに悩まされることになる。

例えば自民党の豊田議員はパトロンたちに見放されるのを恐れて秘書たちを怒鳴り散らしていた。さらに民進党に至っては、パトロンさえおらず、どうしたら身分が維持できるのかがわからなくなっているようだ。とにかく目立てばいいと考える人たちが出てきているようなのだ。

こうした救い難い問題を解決するためには、職業訓練や社会保障を「我がこと」として捉えなおせる人が政治を行う必要があると思うのだが、果たして今の政治家にそれができるのだろうか。

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