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憲法第9条なんかいらない

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今日のお話は「憲法第9条なんかいらない」というものである。護憲派の人たちが絶叫しそうだが、重要なので、護憲派の人ほどよく考えてみていただきたい。結論として「やはり9条は残す」でもいいのだが、考え方のプロセスが重要だ。日本の護憲派の認識は一世代前で思考停止しており、そのカウンターとしてさらに「やばい」考え方がある。つまり、民進党の改憲論の方が実は「やばい」ものになっているのだ。

実は第9条はいらないという考え方は特に珍しいものではない。実際にこの文章を書こうと思ったのは日経ビジネスオンラインのこの記事を読んだからである。冒頭の一文には少し異論があるが、そのあとには特に反論はない。

  • 第二次世界大戦前の日本は「ならず者国家」だったので、国際社会に復帰させるために戦争を明示的に禁止した。
  • だが、そのあとで国連も戦争を禁止し、日本は国連に参加することで国連の規定を守ることになった。
  • ゆえに憲法で戦争禁止を唄っても構わないが別になくても構わない。

ここで重要なのは「自衛」と「戦争」というのは同じ武力を使う行為でも明確に区別されているということだ。反論があると書いたのは、第二次世界大戦以前に日本がならず者国家だったという記述だ。確かに侵略戦争は禁止されつつあったが、確定していなかった。それは、ヨーロッパがアフリカやアジアを侵略することは主権国家の既得権益だと考えられていたのに後発国はやってはいけないという中途半端な主張だったからである。。その意味では日本は遅れてこのスキームに参加しようとした「だけ」であるとも考えられるし、ドイツが責められたのもアフリカではなく近隣の主権国家を侵略した「だけ」であるという見方もできる。

この論争は現在の核兵器保持と似ている。核開発も既得権益であり後発国は作ってはいけないという主張なのだが、これは説得力がない。日本は核の傘に守られているのに北朝鮮は守られてはいけないという理屈は通らない。

しかし、戦争を禁止したと言っても、攻撃してくる国は無くならないだろうという前提で「防衛」という概念は残った。それを拡大したのが集団的自衛である。

同じ敗戦国でもドイツには集団的自衛についての議論はないはずだ。ドイツは、ヨーロッパの集団的自衛のスキームに半ば強制的に組み入れられてしまったからだ。だが、アメリカは日本をあまり信頼しなかったのか、それとも別の理由があったのか、アジアに同盟国のリーグを作らなかった。オーストラリアが反対したためだという話を聞いたことがあるが、真相はわからない。

つまり、戦争放棄はすでに実現してしまっているということを念頭に議論を行わないと、議論がどんどん明後日の方向に流れてしまうことになる。実際に日本の防衛論争は第二次世界大戦を念頭において行われており、当然のように迷走している。侵略戦争が半ば許容されており、集団的自衛という概念もなかった時代の「戦争と自衛」である。

その意味では自衛隊を憲法の中に加えようという安倍首相の考え方はそれほど間違ってはいない。安倍首相の問題は、既存の憲法解釈をごまかした上で議論を混乱させているというものだ。だから安倍首相のもとでは憲法改正の議論はしないほうがよいだろう。また、アメリカは集団的自衛という概念を翫んでベトナムを攻撃したり、いいがかりをつけてイラクを攻撃したりしているので、本来ならば、アメリカと距離をおいた政権がこれまでの「集団的自衛」の枠組みについて再検討した方がよい。

例えばこんな議論があった。韓国は集団的自衛のスキームのもと対ベトナム戦に参加した。これは共産圏からの防衛という名目でアメリカの傀儡国家を守ろうとした戦争だった。韓国は死者を出した。大義のない戦争なので「日本は集団的自衛を禁止しているからベトナム戦争に参加しなくてすんだ」という議論が生まれる。韓国がなぜベトナム戦争に参加したのかはわからないのだが、第二次世界大戦では当事者として認められなかったので「主権国家」として幾分の見栄を張ったのではないだろうか。

安倍首相のもとで、集団的自衛の枠組みについて話すのはやめた方が良い。明らかに中国や北朝鮮などに対する蔑視感情があり、それを封じ込めるために集団的自衛体制を活用するというようないささかおかしな構想を持っている。それが、中国を封じ込めるためにインド、アメリカ、日本、オーストラリアとの間に軍事同盟を作ろうという構想だ。こうした「勝ち組」ネットワークに乗ることで、今度は戦勝国になれるなどと考えているのだろう。だが、北朝鮮が封じ込められていないことからわかるように、アメリカが「勝ち組」である時代は終わっており、これは冷静な判断とは言えない。さらに、安倍首相は正直さにかけ、自分の意向を通すためなら有権者を騙して良いと考えている。法律レベルでも有害な考え方だが、憲法は有害度が高い。

一方、前原民進党はこの議論にはもっとふさわしくない。以前にも引き合いに出したが前原さんは次のように書いており、これを撤回していないようだ。

日本国憲法前文の第2パラグラフには、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と書かれています。核実験を繰り返したり、力による主権の拡大を図ろうとする国やテロ集団が散見される今、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」というのはあまりにも現実離れし、理想主義に過ぎないかと思います。

これは理想主義どころか国連の理念そのものなので、これを受け入れないでアメリカとの軍事同盟に依存するというのはおかしな話だ。さらに外からの脅威と内側からの脅威をごっちゃにしているように思える。いずれにせよなぜ常任理事国という特権を持っている中国が国連の枠組みを破棄してまで日本に攻めてくるのかということを説明しなければならない。後者は秩序維持なので「自衛の枠組み」で対処すべきだが、一国では処理できないので集団的自衛について議論する必要がある。

いずれにせよ、議論そのものは次のような手順で行われるべきなのではないかと考える。

  1. 第一に国連を中心とした集団的自衛と秩序維持の枠組みを所与のものとして認める。ついでに国連の理念を受け入れる。
  2. 次に、アメリカを中心とした同盟関係を整理し、どのように再編成すればよいのかということを組み立て直し、実際に国際的な同意を取り付ける。
  3. その上で、どのように集団的自衛の枠組みに関与するか(あるいは関与しないか)を議論する。
  4. さらに、第二次世界大戦後にどのような背景があり第9条が作られたのかを理解した上で、現行憲法にどのように記憶として止めるのかということを決める。
  5. 最後に条文を作る。

現在の自民党の内部の話し合いを見ていると、他の党がどう受け入れてくれるかわからないので、両論併記的に並べて置いて選んでもらおうなどという議論をしている。実は憲法などどうでもよく、単に政局の道具として使われているのである。こうした議論しかできないのなら、時間の無駄なので今すぐやめた方がいいのではないか。

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