ざっくり解説 時々深掘り

山尾志桜里はどうして民進党を離党しなければならなかったのか

Xで投稿をシェア

カテゴリー:

さて、今日は山尾志桜里議員がどうして民進党を離党することになってしまったのかについて考えるのだが、政策がどうしたとか、日本人は不倫に敏感すぎるなどという話はしない。その代わりに我々が組織を立て直すためにはいったい何に気をつけるべきのかということを考える。

先日フジテレビ系で「セシルのもくろみ」というドラマが終わった。ドラマそのものは真木よう子のTwitterでの炎上騒ぎ(クラウドファンディングを使ってコミケを荒らそうとしたらしい)とドラマの低視聴率しか話題にならなかったのだが、なかなか分析しがいのあるドラマだった。

ドラマの前半ではモデルやライターが延々と足を引っ張り合っていた。彼女たちが足を引っ張り合う理由は2つある。

第一に、彼女たちは非正規でどのように頑張ったら成果が得られるかがわからないという状況に置かれている。次に雑誌そのものが「憧れの牽引」という過去の価値観に基づいて雑誌を作っており、なおかつインターネットの登場という新しい潮流について行けていないという事情がある。

この結果、雑誌にビジョンがなくなっており、ジョブディスクリプションが作られない。ジョブディスクリプションがないと何について頑張っていいかがわからない。にもかかわらず、人気がなくなれば切られるかもしれないという不安定さがあり、それが足の引っ張り合いにつながっているのだ。

ここまでくるとなぜ民進党の分析をするのにドラマの話から始めたのかがわかってもらえると思う。つまり民進党の議員は「何についてがんばっていいかわからないが、確かに序列が存在する」という状態に置かれており、フリーランスのライターやモデルに近い。

つまり民進党にはビジョンがなく、有権者受けのよい企画を探して読者投票を繰り返すような状態になっているのだ。

この不安定さはまだ2回しか当選していない山尾議員がたまたま見つけたネットの書き込みを紹介して一躍有名になり、幹事長になるかもしれないというところまに現れている。そこで「実力もないのに運だけで幹事長になれるのかよ」という妬みが生まれ、不倫現場をリークされてしまったのである。

「民進党は嫉妬にかられた実力のない政治家の集まりだ」と断罪するのは簡単なのだが、その背景を意識するのはなかなか難しい。周りで見ている人たちも「自民党のデタラメな政権をなんとかすべきなのに、なぜ仲間割れするのか」などと心理的に肩入れしてしまうので、その背景について分析ができない。分析できないと状況が改善しないのだから、いつまでも同じような状況が続くことになる。

ドラマでは、最終的には三つの選択肢が提示された。一つは創立当初のビジョンを思い起こし(すべての女性が無理せず輝けるというベタなビジョンがあったそうだ)た上で、ネットリテラシーがより高いプラットフォーム(雑誌社ではなくIT企業)で再出発するという方法だった。これはかつてのカバーモデルと女性だからという理由で編集長になれなかった(と、勝手に思い込んでいる)副編集長が採用した選択肢である。

もう一つが既存のプラットフォームで当初のビジョンを取り戻すという方法である。これを採用したのが読者モデル上がりの主人公だ。つまり部外者が入ることで組織が当初のビジョンの大切さを思い出したということになる。

雑誌を足の引っ張り合いの横行する混乱状態に陥らせる原因となった編集長は、雑誌編集をすっぱり諦めカレー屋になってしまう。デジタル推進の部署に異動になったので「新しい可能性を追求できる」と考えてもよさそうだが、雑誌社では島流しの部署としてしか認知されていないようだった。つまり、現代の環境に適応した雑誌作りには魅力を感じなくなってしまったのだろう。

民進党が足の引っ張り合いをやめるためには、当初のビジョンを思い起こして、有権者とよりつながることができるプラットフォームを見つけるべきだということになる。それが既存の組織になるか、それとも新しい組織になるかはわからない。個人的には今ある民進党の地域組織を作り直して、誰でも参加できる政治的プラットフォームを再編成してほしいと思うのだが、特にこれに従う必要はない。Twitterなどを使って専門家が継続的なメッセージを発信し続けるという方法論もあり得るだろうし、すっぱり党を解散してやり直すという選択肢もある。

ここで重要なのはビジョンの大切さなのだ。ではビジョンはどうしたら定義できるのだろうか。それは、組織が何ができるのか、あるいは何をして市場に貢献すべきかということを考えることである。これを「コンピタンス」と呼ぶ。その中心で一番重要なのがコアコンピタンスだ。

実は政党のコアコンピタンスは政策ばかりとは言い切れない。例えば個人の間にある漠然とした要望や不安なりを汲み取っていち早く政策化する能力は、十分コアコンピタンスになり得る。政策は製品のようなものなので、既存の政党は製造業型のコンピタンシーで競っている。だから政党が政策を提示した上でどちらかを選んでくださいというようなアプローチになるのだろう。

一方、政策の具現化はサービス産業に例えることができる。つまり、イデオロギーベースの製造業のような政党から、政策を実現することができるサービス産業のような政党に作り変えれば勝つことができるのだが、これは既存の政治にどっぷりつかった人たちにはなかなか難しいのではないかと思う。

実は政党が今やらなければならないのは、社会全体で共有できるゴールの設定ではないだろうか。大げさに「共通善」と呼んでも良い。既存のやり方ではこれを外から持ってきて押し付けている。例えば「オリンピックの誘致」などがそれである。外からオリンピックを誘致したから成功に向かって頑張ろう!とか、今治に世界に誇れる獣医学部を作ろう!というのも立派なゴール設定だし、北方領土の経済発展のために頑張ろう!というのもゴール設定だ。だが、こうしたゴールを信じている人は誰もいない。それは一部の人たちが利益を独り占めするようになってしまったからである。

さらに「国家や民族のために一人ひとりは犠牲になって死ぬべきだ」などという善はもはや狂気としか呼べない。

現在の日本では、一人ひとりが持っている善の感覚を拾い出して、それを社会全体に広めて行ける機能が求められている。

蓮舫代表を追い落とし、山尾議員を離党に追い込んだところを見ると、民進党は時代に取り残されつつあり、当初のビジョンも失われているということが言える。が、そこまでわかればあとは何が時代と合わなくなっているかという分析をすればいいだけなので、党を再建するのは実は簡単なのだ。ここではメディアを例に挙げて「テレビ型からネット型」などと分析してみたのだが、もちろん切り口は他にも考えられる。

いずれにせよどこと連携すれば受けがいいのかなどということを考えているうちは、こうした足の引っ張り合いは無くならず、離党者も増え続けるのではないかと思う。

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで

Xで投稿をシェア


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です