さて、前回は産業の発展という視点から憲法を考えた。すべての国は農産品か地下資源を輸出することによって外貨を稼ぎ軽工業化を経て重工業化する。その後、サービス産業へと移行することで産業競争力をつけて行くという仮定のシナリオを立てた。
ちなみに日本の場合は絹を輸出して外貨を稼ぎ繊維産業などがおこり、軍需産業から重工業化した。第二次世界大戦後に本格的に重工業国になったが、その後の知的資産の蓄積を怠ったために成長から取り残されて現代に至る。
同じように、ベネズエラは地下資源の輸出を通じて外貨を獲得し、それを軽工業か重工業化の資金にすべきだった。だが、実際には石油産業を国有化し必要なものはすべて海外から買っていたために次の段階に進むことができなかった。困窮化すると民主主義が成り立たなくなるために、憲法を変えて議会を無効化し行政への権力集中を行おうとしている。
トルコの場合は、民族資本によって国の開発を行おうとしたがうまくゆかず、イスラム勢力の強い統制力のもので次の段階への脱皮を図ったのだろう。現在は農業から軽工業中心の段階にある。こちらも産業を移行しなければならない段階にある。
このように産業のフェイズが変わるときには国内の体制が動揺するので、憲法を改正して行政への権力集中を求めるというのが今回の一般的な考え方だった。
日本の改憲派は、五大工業国だったころに戻ろうとしているのだろう。目指すのは域内で統一市場を作ることである。このために国が国民の主権を制限して土地を接収できるようにしたり、軍事力による域内の統一のために自衛隊を国軍にしようとしている。
もちろんこのような考え方が今の国連中心の国際秩序の元で許されるはずなどないのだが、少なくとも自民党の憲法改正案はこのような考え方を導入しないと説明ができない。
実際には日本は重工業で得た外貨の蓄積を次の産業への涵養に使う必要がある。では次の産業とは何なのだろうか。例えば自動車の例を考えると、工業化社会での自動車は移動と運搬の道具だが、次世代型の社会では余暇のための道具になる。また携帯電話は通話のための装置だが、次世代型の社会では音楽を聞いたりゲームをしたりする道具になる。つまり、巨大なインフラから人が知的資産になるという段階である。教育が重要なのはこのためなのである、
だが、日本は重工業で得た資金を土地に当てた。もともと産業に使える土地が少なく希少価値が高かったからだろう。このため土地がバブルを起こし、資産として信用できなくなったことをきっかけに投資先を失い、現在のような歪んだ政治状況が生まれた。
この話で重要なもう一つの点が、余暇の重要性だ。現在「余暇」と呼ばれているものが、次世代型産業の核になる。つまり、今まで「余って暇な時間」だと思っていたものが経済の主役になってしまうのである。
余暇は、英語ではリクリエーション(再創造)と呼ばれるのだが、日本では余った暇な時間という位置付けになっている。この余暇という名前は、集団を通じた競争を好み怠けることを嫌う日本人に合わない名前である。ドラクエの新作をクリアするために有給休暇をとるというのは、日本ではほぼ犯罪行為に等しい。だが、次世代型ではドラクエこそが産業なのだ。
だが、日本ではIT技術というとせいぜい工業生産の効率化のための道具にすぎない。サービス産業化という言い方もあるが、サービスは日本語では「無料奉仕」なのだから産業になりようがない。オリンピックですらスポーツコンテンツが金になるという考え方はなく、もっぱら政治家の関心は土地を売り買いした仲介手数料で儲けた後に、コンクリート製の巨大な聖堂のような建物をいくつも作ることである。
また、子供を作り次世代の納税者を育てる活動も日本では「生産闘争」化した戦線からの離脱を意味しか意味しない。このため母親になることをとるかキャリアをとるかという二者択一を求められ、家に子供と取り残された母親は「私の価値って何なんだろうか」と悩むのだ。生殖も英語ではリプロダクション(再生産)というが、日本では母親になるということは男性型社会からの離脱しか意味しない無意味な行為なのだ。
本来ならば日本人はメンタリティを変えて、相互扶助型の包摂型社会に移行すべきなのだが、これはインテリ層には受け入れられても、大衆層には響かない。ゆえに、日本を次世代型の産業に移行させるためには、余暇と子育ての位置付けを変えてやる必要があることがわかる。
例えば、余暇という言い方はやめて、再創造闘争という言い方に変える。休みをとるのは国の競争力を高める闘争の一環であって、正しい日本人としての休み方を追求しなければならない。家でゴロゴロするなどもってのほかで、正しい道を極めるべきである。例えばドラクエも闘争の一環なので、だらだらとやるなどとんでもないことだ。国家資格である「ゲーム道」として極めなければならない。
まずはNHKでゲーマーが「遊び人」という世間からの偏見と戦いながら国家資格を取った主人公が、世界的なゲーム大会で勝ち世界を驚嘆させるというストーリーを秋元康原作のドラマとして流す必要がある。
さらに、育休などという女々しい言い方はやめて、再生産闘争という名前に変えるべきだ。母親の育休は再生産動員であり、その予算は国防費によって補助されるべきだろう。将来国民が減っては国の守りが果たせないからだ。再生産動員中に再生産戦闘員(子育て中の母親のこと)に不利な扱いをする企業は反日企業認定すべきだろう。また、婚外子を作る活動も再生産闘争として支援されるべきだろう。金曜日に合コンに励む男性を「国の守りを固めるために励め」と国旗の万歳三唱で送り出し、再生産闘争の日とするのもよいかもしれない。
このことから、今日本に必要なのは憲法改正ではなく、意識改革だということがわかるだろう。もしそれでもあえて憲法を改正するとしたら、一人ひとりが居心地の良さを求めるための時間と資源を獲得できる体制を作る必要がある。ここから考えられる基本的政策は3つになる。
- 権限を地方に移し、できるだけ小さな単位で細かな政策決定ができるようにする。
- 個人ができるだけ次世代型の経済活動を維持できるような社会保障体制を作る。
- 単一市場を作るために主権の一部を捨てて、国際協力を目指す。
だが、こうした包摂社会を作るための政策は「弱腰だ」とか「左派的だ」などと言われかねない。これは明治の近代化を通じて重工業型のマインドセットを身につけ、高度経済成長気の強烈な成功体験が麻薬のように利いているからなのだと思う。だが、こうした成功体験はもう戻ってこない。ここにとどまる限り日本は中国やトルコといった開発途上地域と競争することになる。
マインドセットが変えられないのなら、せめて次世代日本の標語を「遊べ一億火の玉だ」とするのが良いのではないかと思った。