今日は、日本はどんどん右傾化してゆくのではないかということを書くのだがあまりにも暗い話なので、全く別の話から入りたい。
先日Twitterを見ていたら、推しメンを応援するために会社が休みたいのだが、休みをくれなかったから会社を辞めたというエピソードを見た。本当なのかはわからないが、ありそうだなと思った。
例えばAKB総選挙は好きな女の子を競わせて競争している。いわばスマホゲームの現実版であると考えられる。競わせてどうするのかと思うのだが、多分参加している人たちはそうは考えていないのだろう。実際にCDが売れる。ここでは競うことが自己目的化しているのだが、これが日本人のかなり本質的な部分なのではないかと思う。恋愛で失敗すると左遷されるというのも実はサラリーマン社会のメタファーになっている。つまり、かってあった会社の出世競争をゲーム化したものであり、対象者は男性なのだろう。
つまり、これは出世競争のゲーム化である、もしファンが本物の出世競争に忙しければ、こんなゲームが成立するはずはない。つまり、日本の企業が目的を失いつつあり、出世が難しいからだろう。中高年層が詰まっているので若い世代には出世の見込みがない。
同じことが政治の世界でも起こる可能性がある。つまり、現実世界に面白味がなくなると、人々は勝てる競争を求めて政治の世界に群がるようになる。彼らの目的は「争う」ことなので、中国や韓国のような外国が仮想敵になる。平和を目指そうというのは弱腰な態度であり競争には邪魔なので、中国や韓国に通じている人ということで反日認定されることになるだろう。
ポイントとしては団体戦であるということがあげられる。個人としての日本人は穏やかでおとなしく、自分の顔や名前を出して意見表明することは難しい。が、団体になると突然競い合いを始めるのだ。
こうした社会では、女性や障害者などは弱い人たちであると認定される。彼らは競争には邪魔なので排除されなければならない。同性愛も社会を弱くするので排除されることになるだろう。一方で、オリンピックのような国威発揚行事は大好きである。それは強い日本を象徴するからだ。
「勝ち負け」ということを基準にすると、いきなりするするとパズルが解けてしまう。つまり、日本人が勝ち負けというものにとても強く惹きつけられていることがわかる。一方で「正しいことをやる」というような規範意識は薄い。西洋のように「プリンシプル」で動くことはまずないし、韓国のように儒教規範に従うという伝統もない。勝つためならなんでもやるという社会だ。
擦り切れるまで競い合う競争心は、これまで企業社会に吸収されていた。ホフステッドの例で見たように、幼稚園の時から運動会で競い合うよう「洗脳」され、受験勉強を勝ち抜き、企業で出世のために競争する。この競争によって生産性が上がっていたのだが、いったん何のために競い合っているのかがわからなっても、振り返って生き方を見直しましょうなどということにはならず、ゲーム性の高い競争に惹きつけられてしまうのだ。ある人たちにとってはそれがAKB総選挙であり、別の人にとってはネット右翼活動なのだろう。
が、一部の人が惹きつけられているわけではなく、かなり多くの人が根底に「競争したい」とか「勝ち組に乗りたい」という気分を持っているのではないだろうか。例えばバニラエアに乗っていた車椅子の男性は「弱い障害者」と見られることを拒否して、闘争することを選んだ。支援が必要な弱者であるというのは競争からの脱落を示すので闘争を選ぶのが日本社会なのだ。だから彼らが「もっと社会に参加させくれ」などと他者に依頼することはない。よって、そうした声が政治の現場に届くこともない。
面白いことに包摂的な社会を思考する人には学者などが多い。彼らの立ち位置は「弱い障害者や貧困者を助けてあげましょう」ということだ。だが、当事者たちは救済されたいとは思っていない。だから「弱腰で女性的な」社会民主的な運動は日本では広まらないのだ。
あるLGBTの団体は「性的少数者」の権利について話がされることは歓迎しているが、当事者に少数者というレッテルを貼るのは心緒にしろと主張しエチル。西洋では少数者は単に数が少ないということなのだろうが、日本のように勝ち負けにこだわる社会だと、数が少ないことがそのまま負け組であるというニュアンスを帯びてしまうのだろう。
つまり、人々が政治に関わろうとすれば関わろうとするほど、どんどん強さが打ち出されて競争的になるのが日本社会なのだある。これは多様な人たちを包み込んで行こうという方向に社会が動く西洋とはまるで異なっている。
政治家はそうした有権者を映し出す鏡になっている。
安倍首相は一度負けたことで「もっと強さを打ち出して競争に勝たなければならない」と考えたようだ。そこで「強いリーダーシップ」とか「決められる政治」などと、ことさら強さを打ち出すようになった。アジアに対する強硬な姿勢が「右傾化」と言われているが、右傾化とは少し違ったニュアンスを帯びているように思える。下野したことがトラウマになり、心理的に傷ついた心を補償するために硬化してしまったのである。
しかし、民進党の蓮舫代表もきれいな女性とみなされるのは弱さの象徴なので、いつも怖い顔をして声をはりあげるようになった。あれが彼女なりの強さの演技なのだろう。小池都知事の場合には、打ち出しは女性らしいが、自ら政治闘争と対立を仕掛けるという極めて男性的な行動だ。実はこうした行動に女性も惹きつけられているのだろう。女々しく女性的であるというのは悪いことであって、女性であるからこそ、男性のように振る舞いたいと考えるのだろう。
このように、政治的な変化はすべて「より強く」という方向を目指している。結果的には対立が作り出される。つまり日本人が政治に夢中になると現実的な問題解決や統合といった課題は忘れ去られ、対立と社会の分裂が生まれるのだ。この背景には自己目的化した党派間の闘争心がある。
右傾化の正体は、西洋では純化欲求なのだと思うが、日本では競争への飽くなき欲求なのではないだろうか。これを本当に右傾化と言って良いのだろうか。