前回、太宰府天満宮が「日本人らしさ」を見出そうとして失敗したのを観察した。これといった特性が見出せなかったために「挨拶をして食事をきれいに食べるのが」日本人というまとめになったようだ。日本人は外国人と接してこなかったために、アイデンティティを確立する機会に恵まれなかったのだろうと分析した。
Twitterでは別の記事が出回っている。それは愛国右翼の人たちが、GHQによって否定されたある本をコピペしているという内容である。取るに足らない内容だが、愛国右翼の人たちはそれほど気にしないということである。
日本は明治維新で全く自分たちとは異なる外国人を見て驚く。そこで、西洋の真似をしようとして、髪型を変えたり服装を変えたりした。しかし、海外と植民地の獲得で衝突するようになると揺り戻しが起きる。西洋の序列に異議申し立てをしなければならず、そのために民族の独自性を主張する必要に迫られたからだった。
だが実際には日本オリジナルなものは何も見つけられなかったので、外国から取り入れた文化を自分たちなりに精緻化したという理解がされたようだ。さらに、その優位性を強調するために、西洋流の一神教的な伝統が加えられている。結局は「つぎはぎこそが日本文化だ」という独白に過ぎなくなっている。
その思想は多くの事実誤認に基づいている。特に権威に対する考え方は完全な誤解だ。日本は権威を空白化させることによって体制を安定させてきた。嫉妬心が強い社会なので強いリーダーは極力排除する必要があるためだ。民族がせめぎ合う中華圏は、各民族や王朝が折り合えないから強い権力で押さえつけ、それが失敗すると革命が起こるわけだが、日本には強力な他者が多くなかったために極端な革命が起こらなかったのだろう。だが、こうした成り立ちの違いは完全に無視されていて「神話で無謬性が保障されているから万世一系なのだ」という説明がされたらしい。
このように「私は何か」ということを定義しようとして「〜でない何か」の蔑視になってしまうというのはよくあることだ。日本の場合は、欧米流の民主主義と個人主義を否定し、同時に中国的な革命の否定になっている。が、自分たちの社会の成り立ちをうまく規定できないために、持続不能な社会ができてしまうのである。
ドイツの例を見ても「民族のアイデンティティ」などが強調される時代背景には経済的な困窮があった。ドイツの場合には、国内経済の行き詰まりがあり、東方に新領地を展開するために「ゲルマン民族の優位性」というエクスキューズが必要だった。さらに「自分」をうまく定義できず、ユダヤ人という「非ヨーロッパ系」を持ち出してきて彼らを差別することで、自我を守ろうとした。
ドイツ人は「ドイツ語話者」という共通項はあるが、統一国家を作ることはなかった。東方にはドイツ人が支配階級で、「山の民」のような扱い方をされていたスラブ人を支配していた国もある。つまり、ドイツは第一次世界大戦に負けるまで、まとまった民族意識を持ってこなかった。
さて、一連のことを考えていてここで行き詰った。ドイツや戦前の日本には経済的な困窮があり、それを打開するための理由付けが必要だった。民主主義的なプロセスではそれが打開できなかった。そこでできた理由付けにはどこか病的なものが含まれている。それが他者の否定と差別だ。
だが、今の状態が病的なのかということを考えようとしても、思い当たるものは何もない。確かに不況が20年以上も続き、経済的な困窮を抱えている人が多いのは確かだ。が、日本人が非難されているわけではないので、他者を否定してまで自分を守る必要はない。
だが、「日本人とは何か」という議論は憲法改正の根幹になっている。憲法は「日本の民族性」の上に成り立つべきものなのだが、その民族性がとてもあやふやで他民族との比較の上にしか成り立たないものである。砂の上に楼閣をたてるみたいなもので、議論の途中で倒壊する可能性が高い。もしアイデンティティ探しが病的な要素を含んでいるとしたら、憲法も病的なものになるだろう。
この議論は、例えて言えば、そろそろ先が見えてきた中年サラリーマンが「俺っていったい何だったのか」ということを考え始めるのに似ている。いわば中年の危機だ。しかし、もともとの人生の目標が外にある(つまり他人の評価のために生きてきた)ために、中には見つからない。そこで、同期を思い出して「あいつより俺の方が優れていた」と思うようになる。そして「あいつがやっていないことをやるのが俺なのだ」という結論になってしまうのだろう。
思い当たるとしたら戦後すぐに存在を否定された指導層のルサンチマンなのだが、一部の人たちだけが病的な動機を抱えており、それに「そこまで政治に依存していない」人たちが付き合わされるだけという可能性が高い。日本は財政的に慢性疾患のような状態にあり、それを解決しない限り、じりじりと衰退する可能性が高い。にもかかわらず政治的リソースが「自分探し」に浪費されるとしたらそれは大変危険なことのようにも思える。