教育勅語を学校で教えるとき、何が憲法に触れるかということは学校が独自で判断していいということになったらしい。そういう閣議決定が出たそうだ。全く狂っているように思えるのでちょっと考えてみた。
学校や地域が独自でカリキュラムについて判断ができるというのはいいことだ。学校は良心に基づいて教育内容を判断するべきであり、これは個人の信条の自由と同じ意味合いを持つのではないかと考えられるだろう。その点だけから考えると、政府の決定は「正しいもの」ということになるかもしれない。
しかし、この決定に戸惑いが出るのは、そもそも教育勅語が現行憲法下で否定されているという事実を無視しているという点だ。「教育勅語は現行憲法とは相容れないからそこんとこよろしく」という念押しの決議も出ているそうだから、さらに事態は深刻と言えるだろう。本来なら「教育勅語は現行憲法下では否定されており、こういう考えが戦前にあった」というコンテクストでしか教えることができないはずだ。それ以外は「嘘を教える」ことになってしまう。
だが考えてみると、学校で憲法違反の何かを教えても罰則はない。「罰則がないなら何をやってもいう」という道徳心の決定的な欠如が安倍政権の本質なので、この閣議決定は極めて「安倍カラーが強い」ということになる。
ところがこれを延長して行くと。学校と教育委員会が適当と認めれば何を教えてもよいことになる。例えば「わが闘争」を中核理念とする学校があってもいいわけだし、「主体思想」も「資本論」もよいということになる。学校で「今の政府は米帝が日本の民衆を抑圧するために作った政権だから打倒しても構わない」と毎日唱えさせてもよいのだ。
「政府の打倒」などとは憲法に抵触するではないかという意見もありそうだが、政府の見解によれば「憲法はどうとでも解釈できる」わけだから、適当にこじつけて「幸福追求の権利を侵害する政府は打倒しても構わない」という解釈を作ってもよいことになるだろう。もうなんでもありになったということだ。
もちろん「教育委員会が赤化するはずはない」と思えるのだが、教育勅語が学校のカリキュラムになるなどという狂ったことは数年前には考えられなかったことなので、今後何が起こるかわからない。もちろん私立の学校であれば何の問題もないわけだから、共産党はマルクス記念小学校を作ればよいということになる。
要は、学校教育は教育者の解釈次第でどうとでもなるということだ。教育勅語を教えるような学校に子供を入れたり、極右の市長のいる自治体に引っ越して「知りませんでした」jは通らない。つまり、最終的に行き着くのは「学校を100%信頼できるようなお気楽な時代は終わった」ということである。先生を疑わなければ生きて行けない時代になってしまったのだ。