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籠池夫人は何に怒っているのか。なぜ怒っているのか。

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女性週刊誌に籠池夫人の異常な言動が書かれていた。息子の通っている道場に怒鳴り込みに行ったり、レストランなどで突然怒り出したりするそうである。これを読んで、この人にはなんらかのセラピーが必要なのだろうなあと思った。いつも怒っているのは苦しいだろう体。テレビのニュースなどをみても、総理夫人を責め立てたり「もうだめだ夫が逮捕される」とパニックになっていたようだ。悲観的で現実に対処する能力がない。
彼女は自分がコントロールできないものを許容できなかった。だからコントロールできない子供を虐待するのは当たり前のことなのだ。最初から幼稚園教育などには携わってはいけない人だった。
しかし、彼女の怒りを決めつけるようにして書くのも何なので「怒り」についての本でも読んでみようと考えた。図書館で怒りというキーワードで検索したところヒットした本を取り寄せることにした。「怒りの精神分析」というタイトルである。1980年に書かれた本のようで、交流分析という簡易版の精神分析メソッドに基づいて書かれた本のようだ。当時の常識で書かれてあって、例えば同性愛は成長が阻害された結果起こるというような決めつけもある。
交流分析では自分を、親・大人・子供に分類する。感情的な内面が子供で、これを分析的に捉えるのが大人である。その他に子供を抑圧したり規範を与えたりする親というパートが存在する。スーパーエゴなどの心理学的な理論に基づいているのだろう。
子供は様々な感情を持ちうるのだが、内面化された親の規範があり、感情を表に出すことができない。すると、その感情が様々な形で表出する。いろいろなルートがあるようだが、怒りを感じたとt気に、1)自分を罰したり、2)代替を攻撃したり、3)普段は我慢しているが突然キレたりなどという現象が起こる。この本はそのバリエーションを細かく分類してメカニズムを考察している。
怒りはかなり幅広い形を取りうる。例えば相手を操作することも怒りだし、善人のフリをしたりするのも怒りの形である可能性があるということである。例えば、過剰にきれい好きな人がいるが、相手がくつろいでいるのに掃除をしたがる人も「怒っている」可能性があるとのことである。掃除を通じて相手を支配しようとするのだ。
籠池夫人の怒りの原因がどこにあるのかはわからないが、依存の問題があることは明確だ。首相夫人に「なんとかしてくれ」といい、それが叶わないとなると怒りをぶちまける。また、レストランでも「自分の期待通りに相手が動いてくれない」ことに対して怒りを持ってしまうと、それが制御できなくなってしまうのだろう。
籠池夫人が「なぜそんな状態に陥ったか」ということはわからないのだが、親がなんでも要求に応えてくれていたのに突然打ち切られて怒っている可能性もあるし、学校理事長の娘ということを考え合わせると、両親が他人の子供にばかり優しく自分はかまってもらえなかった可能性もある。情緒的に自分をコントロールすることができず、かといって独立して自分の力で自分を甘えさせることもできなかったのだろう。だから「どうしてそうなったのか」を分析するのはもはや意味がないのかもしれない。
いっけん籠池夫人とは対照的に見える安倍総理夫人だが、実は籠池夫人と共通点が多い。お嬢様であって何不自由なく育てられている一方で、自立するための方策は何も与えられなかった。誰かに依存して生きてゆくしかなく、したがって人生に目的がない。
そこで総理夫人は一方的な被害者ではないという可能性が出てくる。怒りには「相手のいうことをなんでも受け入れてしまう」という形もあり得るからだ。つまり安倍昭恵さんは自分の人生が思い通りでないこと、あるいは自分の感情的なニーズが満たせないという怒りを「相手のいうことをなんでも受け入れてしまう」ことで満たしているのかもしれない。こうした自滅的な態度は著作の中では「キックミー」と表現されている。
怒りの表現は人それぞれなのだが、この精神分析では「怒りを手放しましょう」とは言わない。逆に自分の中にある「子供」を認めることのほうが重要だ。この精神分析が目指すところは「人が再び成長を目指せるようになる」ことだという。人には成長したいという欲求があり様々な抑圧がありそれが妨げられているという見立てである。抑圧はフロイト的な考え方だが、成長はユングのいう個性化にも似ている。西洋には一般的に、成長は内在化された神の意志であるというような考え方があるのかもしれない。
籠池夫人は常に他人を当てにしていて、他人が自分の言う通りに動いてくれないとその怒りをぶちまけるという性質があるようだ。たまたま子供を相手にする仕事をしているのだが、子供は言うことを聞いてくれないので、ついつい虐待してしまう。ここから、社会的に不適格であるということは間違いがなさそうである。
だが、シャドウである総理夫人の問題は見えにくい。ちょっと不思議な言動はあるものの、表層的には極めて良い妻だからだ。夫人の問題は、夫や夫の母親から承認されないからどんなに理想を追求しても自分の中にある親がそれを認めてくれないということになるだろう。女性週刊誌では面白おかしく、自立できない夫と何にでも口をはさみたがる姑に囲まれて「居場所がない」昭恵さんの様子が伝えられている。つまり、彼女は成長を目指しているにもかかわらず、それがいつまでたっても成就されないという点にある。成長を目指してあれこれやってみるが、そのやり方すらわからないのだ。
安倍首相は母親の欲求に応えることが人生の目標だが、規範に対して強い恨みを持っているようだ。周りが押し付けてくるルールが大嫌いで自分の好きなように振る舞いたがる。特に女性議員への蔑視は甚だしい。一方で、自分より強いものと同列に見られたがるという傾向もある。非常に子供じみた性格が残っている。これは「親」が弱いからそうなったというよりは、親の抑圧が強すぎて「反抗すること」が人生の目標になっているのだろう。お友達に便宜を図ってやっているという噂があるが、彼らとの間に「ボーイズクラブ」的な連帯を持っているようである。内在化された父親の不在と、強すぎる母親を感じさせる。
なので、安倍首相が夫人のニーズに応えることは絶対にできない。母親が夫人を絶対に認めてくれないのだから、それを自分が認めるわけにはいかないからである。安倍首相は「昭恵さんの怒りと暴走」自体を直視することができないようで、子供のように怒り狂っているという報道もでている。森友問題を認めてしまうと自分が妻を「虐待」していることが露見してしまうからだろう。
そう考えて行くとこれは子供っぽい依存が作り出した悲劇であり、ニーズが満たされない人たちが相互に依存しあって起きた出来事と言えるだろう。それが政権を揺るがしているのだから、世の中何が起こるかわからないものだ。