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川内康範と保守の心根

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最近YouTubeでコンドールマンを見ている。水曜日に更新されるのでなんとなくクセになってしまった。コンドールマンは敵を凌駕する力を持っているわけではなく、苦悩しながら敵を倒して行くので、見ていて面白い。
その中で気になることがある。川内はテーマソングで「日本は守る価値がない」と言っている。守る価値がないのは「私利私欲」にまみれた人たちがいるからである。
現在の日本では日本人の民族性を讃えることが流行しており、逆に「日本のここが良くない」というと、反日認定されてしまうという事実がある。日本を称えて陶酔することが「保守」ということになっている。すると川内は「反日反動分子」ということになるわけだが、実際には保守派の活動家としても知られている。
こうした逆転現象が起こったのはなぜだろうか。コンドールマン当時の日本は高度経済成長期にあり、多数の人が「進歩派」だった。個人の自由が尊重されて、昨日より豊かな暮らしをすることがよいとされていたのだ。そんな中で旧来の価値観を持っている人たちは誰からも相手にされず「日本は間違っている」と嘆いており、活路は子供向けの活劇の中にしかなかったのだ。
現在の日本は大新聞までが「成長は必要なのだろうか」というような疑問を持つ状態で、時代(つまり世界の潮流)から取り残されてきた人たちが大多数になりつつある。そこで進歩的愛国者は「反日認定」されてしまうという逆転現象が起きている。つまり保守が多数派になったことで主張が逆転してしまったのである。
コンドールマンで川内が目指す理想の社会像は実はあまりはっきりとしていない。川内は月光仮面の歌も作詞しているが、共通するのは「個人の死」である。月光仮面は匿名の存在で、その善行には個人的な動機はなさそうだ。コンドールマンは伝説のコンドル(おもちゃのような造形が少し痛々しいのだが……)の卵を助けようとして死んだ人を材料にして蘇った超人である。故人の家族に会って「お兄ちゃんに似ているが別人だ」と認定される場面がある。いったん死んでいるので私利私欲そのものがない。太陽エネルギーで動いているらしく食事をしているシーンすらない。欲そのものがないわけである。
欲は成長の源泉なのだが、保守派はこの欲を受け入れることができなかった。実際には相手を押しのけて個人の欲を達成しようという考え方と集団でみんなよくなろうとという考え方があるわけだが、川内の作るヒーローはこの欲をなくすことによってしか救済者を信頼できなかったことになる。その裏返しとしてヒーロー三部作には国家が出てこない。コンドールマンにはお金に狂った大臣が化け物になるというような描写がある。当時の保守は国家と癒着していなかったことになる。
国家が出てこないからといって、民族に無関心というわけではなさそうだ。レインボーマンは日本に痛めつけられた外国人が日本の没落を願うというようなストーリーになっている。現在のいわゆる「保守」の人たちは中国を過剰に恐れているが、レインボーマンの「外国人」はサイボーグや魔女などなんでもありの存在だ。コンドールマンにも外国が食料を溜め込んで日本人を餓死させようとしている様子が描かれている。
冷静になって考えてみると、外国がなぜそれほどまでに執拗に日本人の殲滅を目指すのかはよくわからないのだが、このいわれのない被害者意識が現在まで保守を支配しているようだ。こうした被害者意識がなぜ生まれたのかはわからないが、基本的に存在が脅かされているという感覚は幼児期の危機に根ざしているのではないかと思える。無条件の肯定という幼児期に必要な感情が満たされていない人が保守化するのではないかとすら思える。自身の危機が証明できないので民族に投影しているのだ。
一方でヒーローを無私の存在にしてしまったことで、物語の一部はあらかじめ破綻している。コンドールマンはどこに住んでいて、何を守るために戦うのかということが曖昧になっている。一応、故人である主人公の意思を継ぐということにはなっているのだが、死ぬことで個人の欲だけが洗い流され、保護欲求だけが生き残るというのはあまり合理的に説明できそうにない。歌詞の中では「一体誰に頼まれて日本を守っているのか」という疑問がある。モチベーションがないので、コンドールマンの活躍を担保するものが何もないということになる。
川内の世界観の下敷きになっているのは仏教の教えだ。仏教には大乗と小乗がある。大乗はみんなで民主的に救済を目指そうという教えなのだが、そこに日本的な「滅私して集団に尽くす」という原理が乗ることで、誰かが犠牲になって他の人たちの繁栄を支えるという「搾取の物語」に変質してしまっている。仏教を下敷きにした新興宗教団体で時々出てくるモチーフで「財産をすべて教団に捧げて救済を目指す」という行為のエクシュキューズに使われる。
こうした「滅私」は川内の時代にタイプ化されて、改造されて人としての幸せを失う仮面ライダー、キャシャーン、サイボーグ009などに引き継がれたが、その後失われた。
一方で搾取される個人を前提にして繁栄が成り立つという構図は生き残っており、保守を名乗る人たちはさらに個人を搾取できるように憲法などを変えようとしている。成長という環境が変化することで保守の心根は180度変わった。唯一変わらなかったのは集団のために個人は準じるべきだという搾取の物語なのだ。


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