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さあ皆さんご一緒に 「FBIをぶっこわーす!」

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日本では立花孝志氏が「NHKをぶっこわす」と主張して話題になっている。このほどトランプ次期大統領は「FBI解体派」の人物を長官に任命した。立花孝志氏流の表現をすると「FBIをぶっこわす」ということになる。

ワシントンDCからFBIをなくし「ディプステート博物館」を作り職員をすべて地方に飛ばすそうだ。

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「アメリカはディープステートに支配されている」という主張は1年前にはフェイクニュース扱いされていた。しかしトランプ次期大統領が選出された結果「歴史の本流」になりそうだ。

FBIの新しい長官候補にカッシュ・パテル氏が指名された。現在のレイ氏はトランプ氏から任命され任期が残っているそうだが放逐される可能性が高いという。

REUTERSの記事に次のような一節がある。陰謀論扱いだった「ディープステート」を歴史の一部として刻み込みたい考え。また7000人の職員をアメリカ全土に送り込むという主張はつまりヘッドクオーターを廃止するという宣言になっている。

総合すると「パテル氏はFBI解体論者」という意味になる。

9月には保守系の番組で「FBIが抱えている最大の問題は情報部門にある。私ならその部門を切り離す。初日にFBI本部ビルを閉鎖し、翌日に『ディープステート(闇の政府)』の博物館として再オープンさせる」と発言。「そしてあのビルで働く7000人の職員を米全土に送り込み、犯罪者を追い詰める。警官になれ。君たちは警官だ」とも語っている。

米FBI長官にパテル氏を指名、トランプ氏に忠実な元NSC幹部

これはどのような意味を持つのか。

地方分権国家のアメリカ合衆国の警察は各共同体に置かれている。デビッド・フィンチャー監督、ジェイク・ギレンホール主演の「ゾディアック(リンクはAmazonのDVD)」という映画がある。

1969年から起きた連続殺人事件をサンフランシスコの新聞社に務めていた風刺漫画家が捜査するという話だ。この中で主人公のグレイスミス氏が各地域の警察を回るシーンがでてくる。当時のアメリカ合衆国では同じ州の警察でも情報共有がされておらず管轄外のことはわからない仕組みだったようだ。

そもそも連邦国家であるアメリカ合衆国は日本のように整った官僚制度はなくしたがって警察もバラバラに運営されている。これをかろうじて束ねているのが連邦捜査局だ。仮にFBIが解体されてしまうとアメリカ合衆国の州を跨いだ犯罪捜査は極めて難しくなることが予想される。

ただしこれは「悪夢」のほんのさわりの部分にすぎない。

時事通信に「ジャーナリストの捜査」を主張しているという記述がある。ただし時事通信は「波紋を広げそうだ」と憶測調で書いているため「これは本当なのだろうか?」と感じた。

AP通信にこんな一文があった。スティーブ・バノン氏とインタビューでと書かれている。conspiratorsとは共謀者という意味だそうだが政府だけでなく政府に協力して自分たちを貶めようとする共犯者がマスコミにいるのだから捜査しなければならないと言っているようである。

In a separate interview with conservative strategist Steve Bannon, Patel said he and others “will go out and find the conspirators not just in government but in the media.”

What to know about Kash Patel, Trump’s pick to lead the FBI(AP)

すでにトランプ政権に密接に組み込まれているイーロン・マスク氏も同じような主張を展開しておりこの主張は広くXなどでも流布されている。

マスク氏とラマスワミ氏はは政府効率化省を使って「反アメリカ的」な政府高官をあぶり出そうとしている。政府高官が恐れているのは職を失うことではない。マスク氏のフォロワーなどから個人攻撃にさらされることである。社会からの粛清を恐れている。

この構図は兵庫県知事選挙を巡る立花孝志氏の支援者たちを巡る構図に極めてよく似ている。

健全な民主主義が成立するためには「社会」が必要だ。具体的には地縁・血縁・会社などの組織が「社会」を形成している。しかし現代化が進むと「社会を形成していたまとまり」はなくなり、したがって社会正義という概念もなくなってゆく。

ところが「権力の代わりになって社会正義を執行する」という感覚は残り続ける。

つまり制度は残るが精神はなくなり「形骸化」が進む。

制度の形骸化が進むと「社会正義の実行」を代執行する人達が出てくる。彼らの行動は「社会正義の執行」に似ているのだがそもそも基礎となる社会がないので単なる数の暴力にしかならない。

その意味では日本でもアメリカでも「社会正義原理主義」と呼べるようなものが育ちつつあるといえるのかもしれない。

急激な近代化が「社会制度形骸化させる」という考え方自体はそれほど新しいものではない。ウルリッヒ・ベックが危険社会(リンクはAmazon)の中ですでに提示していたと記憶している。

いつの著作なのだろうかと改めて調べてみたが、なんとベルリンの壁崩壊前の1986年の著作だそうだ。形骸化した社会制度をベックは「がらんどう」と言っていたと思う。つまり今進行中の何かは「社会正義のパロディによる自己破壊」で、それ自体は昔から予言されていたありふれたものなのかもしれない。

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