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さながら文明の衝突 SFCキラキラ女子折田楓氏と兵庫県知事選挙

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斎藤元彦知事の選挙を巡り折田楓さんという名前が注目を集めている。疑惑についてはワイドショーなどにおまかせするとして、今回は「キラキラ女子が選挙に出会うとどうなるか」について書いてみたい。

この折田楓さんという人は慶応SFC出身だそうだが大学在学中から「キラキラぶり」が目立っていたという。週刊誌が盛んに取り上げていて「政治の話題よりもみんなこういう話が好きなんだなあ」と感じた。

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折田楓さんについては週刊誌レベルで様々な報道が出ている。親族間がうまく行っていないため暮らしぶりをよく見せようとしていたなどと語られており、その中で育った女性が慶応SFCに入り「水を得た魚になった」という物語に仕立てられている。退屈しのぎに消費するのには面白いストーリーだ。

本人が出てきて釈明していないこともあり「書かれたい放題」になっている。

慶応SFCとはどんなところかという評伝部分は特に面白かった。

入学当初からエリート気質を植え付けられるが深いことを考えるようにしつけられることはなく「表面的にうまく行っていればそれでいいではないか」という雰囲気があるという。

SFCに一応入学だけをしましたという著者はこれを「芯のなさ」や「合理性を追求してみんなハッピーになりましょうよ」という気質と表現する。SPAがの記事は合理性と書いているが「要領の良さ」と「合理性」は若干異なるように思える。

個人的には「エリート養成校」ではよくあることなんだろうなあと感じた。ただミッションスクール(地方にあるエリート養成校でキリスト教の伝道団が経営していることからそう呼ばれる)と比べると宗教的哲学などの「芯」がないという違いがある。またそもそもバブル期にはこういう気分は広く蔓延していた。「哲学を持て」という人に対して「シラケるなあ」というのが昭和・平成的な対応だった。おそらくSFCだけが特殊ということはないだろう。

ではSFCが選挙に出会うとどうなるのか。そもそも政治とはどのようなところなのだろう。

いつもなんの気なしにつけているTBSの「ひるおび」に選挙コンサルタントという人が出ていた。秘書出身で「政治家を影から支える」というポリシーを持っているという。公職選挙法はとにかくやたらと買収に厳しい法律になっているため「お茶をペットボトルに移し替える」「せんべいはいいけどケーキはダメ」というような理由のわからない(とにかくかなり昔に作られていてそれが更新されていない)規則を「厳し目に」守らせて捜査当局に「付け入る隙を与えない」ように行動しているそうだ。

つまり、現在のルールでは政治家になりたければ

  • とにかく理由のわからない規則を一度飲み込んで
  • できるだけ目立たないようにする

ことが求められるということになる。

この方は謝罪会見のプロとも言われているそうだ。とにかく自分が悪いと思っていなくても世間に恭順の意を示すために頭を下げて見せるという世界である。選挙は「理不尽であっても長いものに巻かれる」ための禊や通過儀礼になっているということになる。

これが「政治文化」とすると「SFC文化」はこれとは全く相容れない世界ということになるだろう。ただし若者に浸透するためには今度は「難しいことは考えないが、とにかく目立ってなんぼ」という文明を採用しなければならない。このため選挙コンサルタント氏は「SNS何かを使っても誰も見てくれない」からあまり使わないと言っている。

これが現在政治の世界で「選挙でのSNS利用に制限を加えよう」という運動の起訴にあることは間違いがない。SNS世代の知る権利を制限し「長いものに巻かれる」文化に合わせさせようとしているというのが現在の永田町のコンセンサスになる。

ではこうした「キラキラ文化」は政治の世界とは相容れないのか。

兵庫県出身で留学経験がある女性として小池百合子東京都知事の名前が思い浮かんだ。週刊誌レベルの「周囲の人の発言」によるともともとは「お気軽な語学留学」だったが箔をつけるために経歴がエスカレートしていったことになっている。ただそれも小池百合子氏が主体的に主導しているわけではなく「父親に言われてそういうことになったから」という理由で始まっているようだ。

小池氏の物語で非常に顕著なのはマスコミの役割だろう。マスコミはわかりやすい構図を作るために「プロフィールにキャッチーさ」を求める。小池百合子氏は周囲の期待に応えてあげただけで、それが結果的にメディアと彼女の間の「共存共栄関係」を作り出したと言えるだろう。いったん小池百合子ブランドができてしまうと事実などどうでもよくなってしまう。マスコミにとって事実は「相対的」なものになる。

そう考えると「難しいことは考えずにとにかく要領よくキラキラしましょう」という考え方はSFC特有のものではないということがわかるだろう。ただ小池百合子さんはマスコミと共存関係にある。一方で斎藤元彦氏は「パワハラ政治家」というレッテルが貼られ消費されるべき存在だ。この違いがマスコミにとっては「本質的」なのだ。

これに選挙コンサルタント氏の発言を重ね合わせることもできる。選挙コンサルタント氏は「とにかくそういうルールになっているのだから難しいことは考えずに従うべきだ」と言っている。「キラキラ」と「恭順」が違っているだけで通底する考え方は一緒なのである。

「キラキラ」さんはとりあえず今ウケる事になっているものを扱えば受けると考えている。「恭順」さんはこの村で生きてゆきたければとにかくルールに従えと言っている。

マスメディアは盛んに斎藤氏の問題を取り上げている。もともと悪役としての役割が期待されていた上、おそらく外形的にみても何らかの処罰が下る可能性が高いため「扱いやすい話題」なのだろう。これに比べると「告発をしていた人が不倫をしていたかもしれない」という問題は扱いにくい問題となり、マスメディアにとってはリスクが高いということになる。

事実は共同体が作るものだ。つまり日本ではみんながそう言えばそうなる(べき)という社会なのだ。それに乗ってみんながハッピーになるならそれでいいじゃないかということだ。

さらにマスメディアは斎藤元彦氏を虐めているという人たちも同じ症候群の一部をなしている。とにかくマスメディアが取り上げて作られた雰囲気が「正解」になってしまう。自分たちがみんなと一体になっているときは気分がいい。しかしそこから外れるととたんに不安になり「マスコミは偏向報道をしている」と騒ぎ出す。

彼らはよく「なぜマスコミはXXXを取り上げない?」という。つまり善悪というのは相対的なもので「みんなが取り上げるか取り上げないか」によって決まるという認識がある。

だから阻害された人たちはみな声を大きくして絶叫しまとまる話もまとまらなくなる。

このように今回の一連のから騒ぎの皮を玉ねぎを向くように一枚いちまいめくってゆくとある共通の認識が浮かんでくる。

本来政治課題は目的に即してデザインされるべきだ。例えば「組織選挙が成り立たないなかで有権者の協力を得るために選挙制度はどうあるべきか」というのが「目的」である。

しかし現在の議論を見ていると「世の中というのはそういうものなのだから難しいことを考えても仕方ない」という気持ちが先行している。ただ、それぞれの認識は少しずつズレているため「私とあなたはどっちが正しいのか?」という不毛な議論が繰り返されている。

アリの群れを観察するような面白おかしさはあるが「結局政治的な課題は何も解決しない」という徒労感もある。

と同時に特に「マスコミが伝えない隠された真実がある」と考える人達がマスコミ陰謀論を語るときにどこか高揚感のようなものも感じられる。なぜ人々が高揚感を持つのかは全くわからないがそれはそれで楽しいのかも知れない。

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