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強迫性の人々とアイディア

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アイディアがなぜ出ないのかについて考える2回目。
小佐古敏荘さんという東京大学の教授が、泣きながら記者会見した。この映像を見た人は「なんかヤバいことが起こっているんだろうな」と感じたに違いない。官邸はこれに「守秘義務があるから」とかぶせた。情報を管理しようとしたものと思われる。
論理的な議論と泣き声では、泣き声の方がよく伝わる。もっと伝わりがいいのは叫び声だったろう。官邸は「守秘義務」と主張したことで、いくつかの重要なメッセージを発信した。もし結論に自信があるのであれば、守秘義務を主張する必要はなかったはずだ。堂々と議論すればいいのである。しゃべるなということは、つまり、彼らが最初からある結論を持っていて、会議の構成員を選んだことを傍証する。多分、厳しい基準を選ぶと補償範囲が膨大に広がるのだろう。
これを見て、関東地方に住んでいる人は「福島県の人はかわいそうに」と思いつつ「自分たちの身の安全は守らねば」と感じるに違いない。これは無用な差別につながる。福島市に住んでいる子どものお母さんは不安な気持ちのまま今後何十年を過ごすことになるだろう。にも関わらず、学者は泣きながら逃げ、官邸は「守秘義務」を口にするのである。
さて、この件で気になったのは、小佐古さんの「その場限りで『臨機応変』な対応を行い、事故収束を遅らせている」という一節だ。場当たり的というべきところを柔らかめな言い方に改めたのだと思うが、この言い方に違和感を感じた。その他にも違和感を感じさせる言葉がある。「私の学者生命は終わり」など、白黒をはっきりさせたがる発言が多いのである。
ヒトはなぜのぞきたがるのか – 行動生物学者が見た人間世界の中でストレスに弱い人たちについての記述が出てくる。一つはタイプAというがんばり屋さんのタイプだ。そしてもう一つに抑圧型の人たちが出てくる。この人たちは常に我慢している。自分の感情を押さえ込んでいるので、感情に対して曖昧な態度が受容できない。つねに白黒がはっきりした世界に身を置きたがるのだそうだ。
これをネットで調べて行くと別の類型に行き着いた。それは強迫性人格である。自分で全てをコントロールしないと気が済まないタイプの人たちだと説明される。完璧主義だが、ちょっとした欠点があると全てを投げ出してしまう傾向もある。全てをコントロールしたいわけだから、他人に何かを任せる事もできない。
この人たちは曖昧さを嫌う。コントロールできないことは嫌いなのである。NHKでやっていたスタンフォードの授業を見ると、ブレインストーミングはまさにこの「曖昧さ」なのだということがわかる。そこには誰が最初に発言し…といったルールはない。むしろある種の混沌を作り出すことによって、発想をストレッチする狙いがある。
そもそもアイディアを作り出しても、それが絶対確実に完成するという保証はないわけだ。これを「何が起こるか分からない」とわくわくする人もいれば、リスクだと考える人たちもいるだろう。
そしてYes And型の思考とは、他人の感情や論理を理解した上で、そこに何かを適切に積み上げて行くことだ。強迫性の人たちは感情を読み取る事も苦手だ。曖昧で何かよく分からないからだ。
「強迫性人格」というと何かその人を「病気だ」と糾弾しているように思われがちである。しかし強迫性の人たちから見ると、柔軟性を持っている人たちは「一つのことに集中できず、いつまでもふらふらしている人」ということになる。
菅直人さんはたくさんの私的諮問機関を作った。どうやら「自分の決定を非難されたくないものの」「他人には任せられない」と思っているようである。二つの心の中で揺れているように思えるが、多分「自分が他人を非難することで勝ち上がって来た」歴史があるからこそ、自分が攻撃される恐ろしさも知っているのではないかと思う。しかし「他人に任せられない」ところを見ると、必ずしも柔軟な人ではないようだ。あとは類推するしかないが、多分他人の感情を読み取るのも、表現するのも苦手なのではないかと思う。
そして小佐古さんも「白黒付けたがり」「人前で適切な感情表現ができない」性格だったようだ。小佐古さんだけが東京大学の先生ではないだろうが、勉強はとてもよくできるのに、感情表現に問題があり、他人の気持ちを類推できない教授という類型は容易に想像できる。彼にとって「臨機応変」は「場当たり的」と同じ意味なのである。
さて、小佐古さんが泣いているのを見て、日本の上層部にはこういう人たちが多いんだろうなあと思った。彼らにとってアイディア出しは「場当たり的な思いつき」であり、起業は「人生をかけた博打」に過ぎない。こういう社会で新しい産業を育成するのは難しいだろうなあと思う。そればかりではなく、実際に存在するリスクすら無視してしまった。結果、議論も管理もできず、ついに人前で泣き出してしまったものと思われる。
最後に、この経験から学べることは何なのか考えてみたい。私たちは多かれ少なかれ「不確実さ」に対する不安を持っている。この怖れを克服するためには「何か不測の事態が起こったときに、協力すればなんとか事態が収拾できる」という経験を積むとよいだろう。人は受容されるために「完璧である必要はないし」「完璧であることもできない」のである。