総理大臣指名の特別国会開催を前に各政党が何を誤魔化そうとしているのかを考えるシリーズ。このエントリーでは立憲民主党を扱う。立憲民主党は表舞台での抵抗を選択したがその背景には「もはや政策が作れずその意欲もない」という事情がある。
立憲民主党のごまかしだけを扱わなかったのは、それぞれのごまかしを通して「もうこのままでは日本の諸問題が解決しない」ことを各政党が薄々気がついているということがわかるからだ。
立憲民主党が誤魔化しているものは少し複雑である。今回の委員長人事を見ると自民党が死守したかったのは「議員運営委員会」だった。つまり裏回しを通じて国会議論を支配しようとしている。彼らにとってはこれこそが議論の本筋だったということになる。
一方の立憲民主党は次のような委員長ポストを手にした。
- 予算委員会:テレビで取り上げられることが多く石破総理が直接批判される場面が増えるものと思われる。今回の国会運営ではここが大劇場になる。
- 法務委員会:夫婦別姓問題は「女性の自由な生き方」を支援する法律とみなされており立憲民主党の支持者である女性に焦点を当てている。この委員会は重要でNHKによればこのためにわざわざ配分を1つ減らしたのだそうだ。つまりこちらは支持拡大のための装置だ。ただしアメリカ民主党の失敗を教訓にすると「人権より日々の生活」と考える女性も多いのではないかと思う。
- 憲法審査会:護憲(憲法に指一本触れさせない)ことが立憲民主党左派の維持に極めて重要だ。しかし外交・安全保障などは担当しない。
- 政治規制改革:「政治とカネ」の問題で引き続き自民党をグリル(火で炙っていじめること)したい。
同時に立憲民主党が何を避けたがっているかも見えてくる。それが税金と社会保障の改革だ。
物価高を一時的なものと捉えていてそれを緩和するために一時的な補填を行うという提案が多い。また103万円の壁問題については協力するとしているが議員の発言を見るとその理解は極めて曖昧だ。130万円の壁問題こそが本丸であるとしている人たちがいたがそれもトーンダウンしてしまった。とにかく一体的な改革はやりたくないし提案があったとしても「個人の意見」にとどまっておりまとまりがない。
いずれにせよ恒久的な対策には消極的という印象がある。この典型事例が消費税減税だった。野田佳彦氏(総理大臣経験者)と枝野幸男氏(官房長官経験者)はいずれも減税に対しては消極的だ。おそらく政権担当したときの記憶が残っていて「万が一にも政権を取ってしまったら減税提案が足かせになる」と知っているのだろう。
ではなぜこんな事になってしまったのか。
日本の政治には実は2つの流れがある。それは官僚派と党人派である。戦前の日本は中央省庁が国会経営を担っていた。このため大蔵省出身人たちには国家経営のための共通言語があった。これが吉田茂らを通じて自民党に持ち込まれ所得倍増計画の池田勇人総理大臣などに引き継がれている。所得倍増計画の原案を作った下村治のアイディアを理解できたのは彼らの間に共通言語があったからだった。
ところが自民党の中にもこれが理解できない人たちはいた。官僚ではないという意味で「党人」と呼ばれた。福田赳夫は大蔵省出身でありおそらく下村治のアイディアが理解できたためこれを岸内閣に持ち込もうとした。しかし岸信介は国家経営の経験はあるが商工官僚だった。つまり統一言語は象徴単位のものでありそれほど広がりがなかった可能性もある。
民主党系の議員にも大串博志氏や玉木雄一郎氏のような大蔵・財務官僚出身者がいるのだがグループとしての広がりがない。
国家経営のアイディアを持つことは誰にでもできる。ところがこれを話し合う過程でお互いの言っていることが理解できることが重要だ。日本の場合には組織的なバックグラウンドを共有していること(つまり同じ言語を持っていること)も極めて重要になる。「同じ釜の飯」が持つ意味が極めて大きい。
国会議員の議論を見ていると、自民党の税調は「インナー」と呼ばれる限られた人たちが議論を独占することでこの共通言語をかろうじて保っている。しかし当然国家経営には「徴税と産業政策」の2本の柱が重要だ。インナーの議論は産業政策は扱わない上に社会保障も扱わない。このため「少子高齢化というトレンド」が所与のものになってしまう。
立憲民主党にはそもそもこの「官僚派」すら形成されていない。官僚出身者がいたとしても総務官僚だったりする。おそらく、市民運動家などの左派も相当数含まれており「共通言語」が作れてないことが立憲民主党の不都合な秘密なのだろうという気がする。共通言語が作れないということは総合計画が作れないということなのだからプロレスと言われようが表で暴れ続けるしかないということになる。
民主党は2009年マニフェストの失敗というトラウマを抱えている。教材は豊富にあるのだからそこから学んで党内で共通言語を作る努力をすればいいのにとは感じる。なぜいつまで経ってもそれをしないのかはよくわからない。
いずれにせよ、日本人が「国家観のある保守」と言っているものの正体がよく分かる。保守思想というイデオロギーについて語っているのではないのだろう。
国家運営の企画立案ができる人たちが実は限られているということを日本人は直感的に知っているのだ。
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