毎日新聞が「白票でもいいから投じるべきだ」との記事を出しSNSで反発されていた。この記事とその後の議論を読むと今の政治には関わりたくないという人が増えていることがわかる。有権者は「どうやったら自分たちは今の政治と関係がなくしたがって責任を取らなくていいか」を示したがっている。穢れた民主主義と呼んでよいだろう。
今回の総選挙の目的は実は政権交代でも政治とカネの問題の払拭でもなく「過去に政治からの縁切り」なのかも知れない。
毎日新聞が白票について書いている。白票であっても投票しないよりはマシだとの主張だ。
その上で、白票の是非については「結果的に白票となってもいいので、投票に行ってみるのが重要。ただ、限られた選択肢の中から選ぶのが一番だ」と話す。どうしても投票先を決められなくても、選挙権を行使することで何らかのメッセージを発せられるかもしれないし、考え抜いた末に白票を投じた経験が次の選挙で生きる可能性だってある。棄権することよりはよほど意味はあるということだろう。
候補者の名前書かない「白票」、政治の不満を伝える手段? 「刃」としては力不足の指摘も(毎日新聞)
ところがこの記事そのものがSNSで反発を呼んだ。経験的に無党派層が白票を投じてしまうと組織票が有利になる。経験則的には自民党・公明党に有利に働くため「野党を勝たせないための策略だ」という人たちが出てきたのだ。
だが実際には毎日新聞が書いているよりは深刻な事が起きているのではないかと思う。
少子高齢化が進行する中で賃金も伸び悩んでいる。このままでは現在の社会保障制度は維持できない。つまり「政治に関わる=負担を受け入れる」ということになっている。
だがこれは将来負担世代が始めたゲームではない。だから「勝手にやってくれ、俺達は負担を背負いたくないしコミットもしたくない」という人が増えていると考えても不思議ではない。
つまり、実際に白票に込められた真意は「政治へのコミット(負担像)を拒否します」なのだろう。確かに「安定した社会の恩恵を受けていながら負担だけを拒否するのか」と有権者を責め立てることはできるがクビに縄をつけて投票に引っ張ってゆくことはできない。また、実際に将来負担世代が過度な負担を背負わされているのも確かだ。
そもそも「政治から距離を置きたい」のは有権者だけではないようだ。
野党は儀式的に内閣不信任決議案を出す。現在の国会は自公が絶対安定多数を確保しており野党は政策に関与しない「言い訳」を手にしている。ここで今起きている政治には一切関与していないことを明確にしておきたいという気持ちがあるのだろう。
長い間石破茂氏が「次の総理候補」として期待されていたのは自民党で要職に就かず意思決定から距離を置くことができていたからである。石破氏は総理大臣になった瞬間に党内野党から既得権の擁護者に転じてしまい石破内閣の支持率は急降下した。
つまり現在の権力は「穢れて」おりそれに近づけば近づくほど国民の心は離れてしまう。自民党・安倍派の一強状態が続いた事による不思議な副作用だ。
そんな自民党の中では不思議な動きが起きている。政治に関わるカネが「穢れたもの」として扱われている。萩生田光一氏は「自民党から汚れた金は受け取らない」として返納の意向を示した。田崎史郎氏は「今回のことを決めたのは石破・森山である」と断罪している。古屋圭司候補は「私は森山氏の応援を断りました」とアピールしている。
もともと自民党の権力構造から距離をおいていたことで人気があった石破茂氏が「穢れた権力構造そのもの」とみなさて自民党の内部から距離を置かれている。そしてその中核には政治資金がある。選挙のためにお金を使うこと事態が穢れているとみなされているのだ。岸田元総理も「選挙資金ではなく通常の政治資金だ」と説明したそうだが彼の発言に耳を傾ける人はだれもいないだろう。
日本では汚い・不浄なものに触れた人たちを忌避する文化があり東京では「えんがちょ」と呼ばれている。地方ごとに様々なバリエーションが有り標準語の表現はないが日本全国に古くから存在する概念だ。一説には「因果を切る」という意味があるなどとされている。
白票を投じようが2000万円を返納しようが不浄な政治と縁を切ることはできないが「距離を起きたい・関わりたくない」という人は増えている。これを一概に政治不信と表現して良いものか迷うところではある。