安倍首相の今回の演説では咳と「静かな環境で」という言葉が目立った。これ、どういう意味なのだろうか。考えてみた。
この言葉は「まずは静かな環境で憲法議論を進めたい」というような使われ方をする。ここでの「静かな環境」とは憲法審査会のことらしい。
安保法制の議論は、自民党が野党の時代を含めて「静かな環境’」で行われていた。右翼界隈は空が蔑視している中国の台頭に不安を抱いていた。中国の台頭というのは彼らが捏造した世界観であって実際には日本の衰退だ。しかし、それを認めることができないので「米国に追随すれば中国を追い払える」という歪んだ仮説が生まれた。アメリカに追随するためには憲法第9条が邪魔なのでそれを無力化しようとしたわけだ。
だが、この物語が作られた頃には状況は変わりつつあった。民主党が政権を取りジャパンハンドラーは主流派ではなくなった。さらに戦費が膨大になりつつあるので、撤退戦が進行することになった。しかし、日本はこの文脈を共有できなかった。
彼らの仮説は彼らが共通に持っている幻想が源になっている。文脈を共有しているからこそ「静かな環境」が作られるということになる。
しかしながら、この静かな環境は破られることになった。日本らしかったのはこれが別のコンテクストとぶつかったことだ。反対する勢力は「安倍は戦争をやりたがっている」という物語を作り上げて事実を布置した。コンテクストとコンテクストがぶつかったので、話し合いは不可能になった。静かな環境に干渉する動きはノイズのように感じられただろう。
ゆえに狭義には「静かな議論」というのはサヨクに邪魔されない場所でという含みを持つ。彼らは何でも反対なのであって議論など無効なのだ。
さて、安保法制の実際の危険性は何だったのだろうか。実はアメリカも一般国民のレベルでは日米同盟が片務的で日本は義務を果たしていないという思い込みを持っている。ゆえに日本が当局に尽くしても「もっとよこせ」といってくるだけで、日米同盟の強化には役に立たない。このようにアメリカが心変わりした時に使えるプランBは存在しない。つまり、閉じられた空間で作られた「静かな議論」は集団思考に陥りやすいということがわかる。
次にこの議論には一貫性がない。今度はロシアとの平和交渉と言っている。頭の中には日露平和条約を成し遂げた偉大な首相というレガシー作りとロシア利権の構築という実利があるものと思われる。一見良さそうだが、アメリカが権力継承期にあり権力の空白ができている間隙を縫って、欧米が作ろうとしているサンクションを破ろうとしているというリスクは考慮されていないようだ。支持者たちは多分「アメリカとは話がついているのだろう」と考えているはずだが、それも集団思考かもしれない。いずれにせよ、日米同盟の深化という話とロシアへの接近は違う文脈で語られる。利権構造が別なので仕方がないことなのだが、世界地図上では繋がっている。
いずれにせよ日本人の議論は(少なくとも集団で行う議論は)集団思考から抜け出すことができない。広く知られているように反対する勢力も平和憲法さえ守っていれば大丈夫という集団思考が見られる。これは日本人が幼児期から文脈を読み合うことを覚えるからではないかと考えられる。すると、その文脈外の問題はすべて「想定外」ということになってしまうのだ。
こうした共同の幻は至る所に見られる。古くは原子力発電で物語がつくられていた。彼らは利益共同体であり、原子力村と呼ばれた。
さて、憲法の場合には「日本人は一丸となって自民党の指導に従った美しい国づくりを目指すべきだ」という物語があるものと思われる。これが維新の「大阪に利権を引き込むためには権力への擦り寄りが必要」という意図と合致したのだろう。
だがこの見込みは間違っている。まず、大阪組だが大阪は高度経済成長から取り残されたのは「大阪がうまくやらなかったからだ」という思い込みがあると思うのだが、実際には違っている。政治の課題は不利益の分配に向きつつあるのだが、それが理解できていないようだ。
自民党側の誤算はさらに深刻だ。日本人は実利があるとき、あるいは面倒なときに綺麗的に組織や社会に従うだけであって、利益の配分がない限り他人には無関心だ。第二次世界大戦で国民が国に従ったというのも幻想で、緊急事態にいやいや巻き込まれただけというのが正しい。ゆえに憲法を改正しても日本人の心象を変えることはできない。
その上自発的な活力は失われ「とりあえず大きいものに従っていれば楽」という認識が一般化しつつある。しかし、それは「私が中心人なって引っ張って行こう」というような積極的なものではなく、フリーライダーの発想に近い。「大きなものに頼ってできるだけ消耗しないようにしよう」というものだ。
静かな環境はその共同の幻から疎外された人たちの反対に合うだろうが、実際に問題になるのは「それが自分たちの生活には関係がない」と考える人たちなのだ。