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わざわざ水害の多い地域に住むのはなぜなのか

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台風が来るたびに川が決壊したというニュースが流れ「水があふれて想定外たった」というような話になる。最近では線状降水帯という聞きなれない気象用語が一般化した。このため気象災害が起こると「想定外だった」という話になり、そんなところに住んでいる人が悪いという論が出てくる。

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しかし、調べてみると川が決壊するのは決して偶然ではないことが分かる。むしろ、日本人はもともと洪水が起こるような土地に好んで住んできた。川の決壊が驚きを持って語られるのは日本人がどこから来たのかを忘れかけているからなのだろう。政治議論をするにしても避難経路を確かめるにせよ、自分が住んでいる地域の川がどのような来歴でできているのかを知るのはとても重要なことである。

また、堤防の議論は日本人は氾濫原に好んで住んでいるという事実を踏まえる必要がある。ダムや堤防を高くすれば普段の洪水は防げるようになるだろう。一見良いことのようだが、数年に一度ものすごい雨が降ると今度は逆に被害を大きくすることがわかる。防いでいた水が一気に流れ下るからだ。2018年の水害ではダムが被害を大きくした。朝日新聞には次のように伝える一節がある。

西予市は3~4キロ上流の野村ダムの放水量が一気に増加したことが原因の一つとみている。野村ダムは7日午前6時すぎ、放水量を1時間前の4倍以上に増やした。ダムを管理する国土交通省四国地方整備局野村ダム管理所によると、上流河川が未明に氾濫危険水位に達し、ダムも満杯になって貯水能力を超える恐れがあったためという。

担当者は「今回はダム周辺に長時間、雨が降り続いた特異なケース。こんな状況での大量放水は想定していなかった。やむを得ない措置だった」と説明する。

ダム管理所は放水の1時間前、サイレンや市内アナウンスでダム放水に伴う河川水位の情報を流し、西予市防災行政無線で避難指示を呼びかけたという。愛媛県の中村時広知事は「本当に難しい判断だと思う。マネジメントを間違えると逆に決壊ということにもつながる」と述べた。

観光名所の京都・嵐山を流れる桂川では6日夜に水位が急上昇し、氾濫(はんらん)した水が道路に流れ込んだ。近畿地方整備局によると、上流の日吉ダムで貯水能力を超える恐れが生じ、6日夕に毎秒約900トンの放流を始めたためという。

NHKを見て「水害対策がなされていない」と騒ぐのは構わないと思う。だが、単に騒ぐだけではなく雨が落ち着いたら地域を実際に歩いてみてどこに何があるのか調べてみるべきだと思う。さらに時間があるのなら地域の図書館に出かけて治水の歴史について見てもよいのではないだろうか。

例えば2018年に被害の出た岡山県倉敷市真備町の小田川にはかつて東西両ルートがあったとも西側ルートだけだったとも言われているようだ。山から下った川は井原で谷筋とぶつかる。もともと山陽道が福山から倉敷に抜けているルートである。小田川はこの筋に従って福山側に抜けていたという話があるそうだ。今では東側に流れており高梁川に接続している。人工的に流路が変えられた形跡のある小田川には天井川になっている地点があり、これが今回の被害につながった。終点が高梁川なので、高梁川に大量の水が流れると流れがせき止められたような状態になる。改めて地形をみるとそのことがよくわかるのだが、言われてみないと気がつかないという人の方が多いのではないだろうか。

今昔マップなどを見ると古い地図を調べることができる。

僕が住んでいる地域は関東ローム層という火山灰が降り積もった台地になっている。近くには貝塚が点在している地域もあるので、もともと台地と深い入り江が入り混じった地域だったようだ。

oldmap

白く塗ったところが川筋に当たる。火山灰の柔らかいところを小さな川が削ったのだろう。

集落は真っ平らなところにはない。谷そばの高台に古い集落がありそこから谷底の田んぼに通っていたようである。

その奥には水害に無縁の大地もあるのだが、ここは旧来全く利用されてこなかった。古くは藩の訓練施設になっていたようでその後軍隊が使うようになった。軍の訓練施設は隣の市からさらに隣の市まで広がっており、隣の市は軍都と呼ばれており、今でも多くの史跡がある。だが軍事施設になるまで空いていたということはつまり利用価値がなかったということである。

戦後になって周囲の事情は一変する。原野にあった軍用地は大幅に縮減されて開拓団が作られた。開拓団は水の便が悪い地域を切り開いたのだが田んぼが作れなかったので畑になったようだ。川がないと栄養分も蓄積しない。肥料を外から入れない限り農業には向かない土地なのだが、今でも畑が広がっている。ところどころに開拓記念碑があり戦後の苦労がしのばれる。

今でも雨が降ると低い土地には雨が溜まる。ところが日本は土地の価値を米で計ってきたため氾濫地を抱えた土地の方が実は価値が高いのだ。ただ住宅に適さないことも知っていて住居は高台に構えていた。

今でも水浸しになる地点には「源弁天」という小さな祠がある。この水源が潰れないようにという工夫だろうか「よくお乳が出る」というような伝説まで与えられている。弁天は水が湧き出るところによくある地名で源町という町も水源地を意味するのだろう。

日本人は古くから氾濫原や水源地とうまく付き合って生きてきた。これがわからなくなったのは高度経済成長期だ。農家が田圃を売りはらい住宅開発をしたので新規住民は土地の成り立ちを知らない。

それを取りまとめていた人たちが市議会議員になった。谷が埋められることはなかったが、谷筋を無視して直線的な道路が引かれ、高低差は分かりにくくなっている。この近くにも「〜台」という地名がついた。だが実際には谷である。それでも水だけはやはり制御できず、大雨が降ると水浸しになってしまう地域がある。よく地域で問題になるがうまい解決策はないようだ。そういう土地に家は建てられないので自治会館が立っている。避難場所にもなるが地元の人は決してそこには避難しないだろう。そもそも源弁天が海に流れる流路にあたり、その道にはいまでも地下河川が通っているからである。

それでも住むには適さない地域が残った。そういう場所は市に買い取らせて、モノレールの基地や公園を整備した。そのように「うまく市政を使う」のが地元の政治家の腕の見せどころだったそうである。このように、水利は今でも政治に大きな影響を与えている。

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