異様な記者会見だった。斎藤元彦兵庫県知事は存在がよくわからない高校生からの手紙を引き合いに出し県民の期待に応えるべく出直し選挙を選択すると宣言した。会見では過去の成果を宣伝する一方で、死者まで出した県庁統治の失敗に関しては「不快に感じる人がいたら申し訳ない」としか総括しなかった。
日本人は爽やかな政治家が効率的に過去の問題をスパッと解決してくれることを望んでいる。斎藤元彦知事はそのペルソナに合わせた演技を貫いている。その姿勢はまるで自己洗脳のようだった。
日本の有権者はおそらく現在の閉塞した政治状況を「効率の悪い人たちがドタバタやっているせいだ」と考えている。これを解決するのは簡単でさわやかで頭が良いヒーローを政治に送り込めばいい。斎藤元彦氏はそんな県民の期待にピッタリの政治家だった。
しかしその一方で組織を巻き込んだ変革管理のような手法にはあまり関心を寄せない。職人仕事のように一人ひとりの取り組みは重視するが実はチーム作業が苦手という特性がある。
しかしその裏では井戸体制で主流派だった人たちと齋藤氏に取り入って主流派になろうとする人たちの権力闘争があった。西播磨県民局へのストーミングの際にはすでに退任したもう一人の副知事の影響を懸念していたことがわかっている。県政は自分が掌握したと言う自己認識を持ちつつも旧井戸派の逆襲を恐れていた。またFNNは片山副知事が「自分が兵庫県政を回してる」と豪語していたのではと報道している。県民から選ばれた政治家が自己宣伝に埋没している間に実権を握り垂簾政治を行っていた可能性がある。
「さわかやな改革者」という見た目にこだわる斎藤元彦氏は全く関心を寄せなかった。彼が気にしていたのは成果を挙げ続けることと「改革者」としての見た目のよさだ。百条委員会では斎藤知事が見た目にこだわり鏡に固執していたとする証言があり「パワハラ疑惑の兵庫県知事が見せるナルシストな顔 「出張先では鏡がマスト」「視察でヘルメットかぶらない」」ナルシシストであると指摘されている。
大阪では寄付金によりパレード計画が盛り上がっていると知ると「自分たちもそれに合わせなければならない」と考える。
現在、補助金のキックバック疑惑が出ている。考えてみれば非常に不思議なスキームである。県が優勝パレードに支出をすればこんな回りくどいことはしなくてもすんだ。だが斎藤知事と側近たちは「県の支出が削られている」という見た見た目を優先している。
この結果、兵庫県庁からは少なくとも2名の自殺者が出ているとされるが、退任会見で斎藤知事はこの問題に全く関心を寄せなかった。その一方で自身を果敢な改革者と位置づけ会見で成果を羅列し「県民の負託に応えるために組織支援なき戦いを続行します」と宣言してみせた。
さらに実在するかよくわからない「高校生からの手紙」の存在を匂わせSNSで批判されている。その姿勢は楽屋裏が暴露されてもなお「いいね獲得」に邁進するSNS中毒者のようだ。
今回の一連の流れを見ると独りよがりで見た目重視の「改革」が組織を破壊することがわかる。
確かに斎藤元彦知事の暴走はわかりやすい。だがその裏には改革の風にのり議席を増やした維新系の県議達がいる。彼らは単なるフリーライダーだった。当初は自民対維新という対決姿勢を鮮明に打ち出していたものの形勢が不利になると戦線から離脱し「もうこれ以上彼らを支えられない」と言っている。
斎藤氏が持ち出した高校生の手紙が実在するかはよくわからないのだが、斎藤氏の改革姿勢を応援している人は少なくないようだ。彼らは「既得権」が改革者潰しをしていると信じている。多くの日本人は「一部の例外が騒いでいるだけだろう」と感じるだろうが、アメリカではこうした政治不信がすでにメインストリーム化している。それがトランプ現象である。
ただ、アメリカと日本では違いもある。アメリカ人は戦う政治家を好むのだが日本人は「スマート」な解決を好んでいる。どちらもイメージ先行で中身が伴わない「いいね」政治なのだが、国民によってどんな政治家を好むのかに違いがあるようだ。