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高橋茉莉さん問題で玉木雄一郎代表が非難されるのは当然だ

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東京15区から国民民主党公認で出馬するはずだった高橋茉莉さんが亡くなった。共同通信は自殺とは書いていないが「いのちの電話」の電話番号を入れている。批判を恐れるあまり何も書けなくなってしまうのだろう。この件では国民民主党の玉木雄一郎代表が「マスコミにあまりこの問題を取り上げないように」働きかける投稿を行い後に削除している。この対応を巡ってXでは多くの批判が集まっている。

玉木雄一郎氏の一連の対応で議論されるべきは「人間があって法律」なのか「法律があって人間なのか」というイデオロギーの問題だろう。玉木雄一郎氏は法律があって人間があると考えているようだ。無党派層の人生を引き受ける政党に成長することは(少なくとも玉木雄一郎氏が代表をしている間は)ないだろう。少なくとも「国民」の名前はふさわしくない。

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国民民主党は連合などの支援を受ける特殊政党だ。小選挙区・比例並立の日本では国会内での地位獲得が難しいため無党派を引きつけようとSNSを利用してあの手この手で奮戦している。最近では憲法問題などを取り上げて積極改憲派と言う打ち出しもしている。経済対策は手堅く「インフレが進むと自動的に重税になるので対策が必要だ」という指摘もしている。元大蔵・財務官僚としては優秀だ。

だが指摘する内容が専門的すぎることもあり無党派層の反応はあまり良くなかった。国民の気持ちを掴む一手が必要である。

そんな国民民主党が見つけた「鉱脈」が失われた世代対策だった。伊藤孝恵議員のロストジェネレーションを意識した発言が「バズった」ことをきっかけにして就職氷河期対策などを訴えている。これ自体はSNSを利用した知見の発見と言えるだろう。

高橋茉莉さんもこの文脈で東京15区候補として「キャスティング」されたのだろう。もともと裕福な家庭の出身だったが小学生の時に経済状況が一変した。それでも頑張って都立西高校から慶応大学に進学している。

ところが聞き取り調査の結果「何らかの問題があった」事がわかり公認候補取り消しとなった。ラウンジ勤務で「夜のお仕事」をしていたことと生活保護の関係が取り沙汰され高橋さん御本人の情報発信も二転三転していたという。高橋さんが一方的に関係を切られて当惑していた様子が印象に残る。

今回、ネットの玉木雄一郎代表の投稿には様々な批判が付いている。もともと名前を伏せたうえで「あまり取り上げないように」ほのめかした形跡がある。この投稿は削除されているそうだが「魚拓」という形で出回っているようだ。個人的にはこの人が本来持っている冷たい気性を感じる。

だがその批判には欠落している問題がある。個人の意見を批判されたくない傾向が強い日本人は本能的にイデオロギーの問題を避ける。ではそのイデオロギーの問題とはなにか。

昭和27年に山口良忠という判事が亡くなった。当時の日本はヤミ米を食べなければ生きて行けない社会だった。法律を執行する立場の山口判事は「自分は他人に法律を強要しているのだ」と考えてヤミ米を拒否し栄養失調から病気にかかり亡くなってしまった。この事件には正解のない対立点がある。

  • 法律は法律だから絶対に守らなければならないという国家統治ファーストの考え方。
  • 法律は人を活かすためにあるのだから「特段の事情」は考慮されるべきだという人間ファーストの考え方。

この問題には正解がない。また自分の都合に合わせて国家統治ファーストと人間ファーストを使い分けたいと考える人も出てくるだろう。

食糧管理法は社会秩序を守るためには必要な法律だったのだろう。だが、厳密に執行してしまうと多くの国民が命を落とす。これを調整するのが本来の政治の機能だ。

高橋さん自身が「ラウンジ勤務と生活保護は重なっていない」と言っているのだから一旦公認した以上国民民主党はそれを信じるべきだった。だが仮に形式的な法律違反があったとしても「そもそも当時の高橋さんが相談できる場所があったのか」という問題が出てくる。

ここで仮に高橋さんに法律違反があったと仮定する。しかし「それを理由に関係を一方的に切ってしまう」ことには問題を感じる。一旦関わった人が再出発できるように配慮するのが「人間ファースト」における政党組織のあり方だろう。

例えば家族や友達に問題が起きたときに「ハイさようなら、あとはお元気で」と関係を切断しますか?ということになる。だが国民民主党は「法律違反=リスク=政治家にはふさわしくない」と考えて関係を切ってしまったのだ。少なくとも一旦関係ができた人間の弱い部分を引き受けることはしなかった。

確かに何も挑戦しない人は「なにか間違えた人」に安全なところから石を投げるだろう。そうすることによってしか何もしなかった自分の人生を肯定することはできない。

さらに高橋さんの問題は困窮しながらも懸命に社会の階段を登ろうとする人のケーススタディとして利用できたはずである。本当に困窮した人が「まともに法律を守って行ける」社会になっているのかは是非検討すべきだしそうでないならば法律や執行のあり方を変えてゆかなければならない。高橋さんが直面した問題に直面している人は多いはずだし、同じ境遇を抱えているからこそ心をひらいてくれる人はいたはずだ。

国民民主党が高橋さんとの関係を一方的に切断したことで高橋さんは困惑し自分の人生を否定されたように感じたのかもしれない。またスポーツ紙などでは興味本位で取り扱われ消費されてしまったことも確かである。本人がどう考えていたのか、今となっては知ることはできないが、同じ様な境遇に置かれていた人をも切り離したことになる。

このよう考えると国民民主党は有権者に受けそうな人材をキャスティングしたがその人の人生を受け入れる度量がなかった。候補者一人の人生も受け入れられない政党が無党派の人生を受け入れることができるはずはない。

本来ならば「国民民主党には国民政党としての資格はない」と書きたいところだが、さすがにそれは書きすぎだと思う。連合などの利益代表として活動する分にはいいが「国民」の名前は下ろしてもらいたいと個人的には感じる。国民民主党は少なくとも「国民の利益や幸せ」を優先する政党ではない。

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