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世界各地でSNSがパンドラの箱化

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ブラジルの最高裁判所がフェイクニュースの拡散を防止しなかったという理由でXを禁止した。フランスも通信アプリテレグラムの創業者で最高経営責任者のパヴェル・ドゥロフ氏を犯罪防止に務めなかったと言う理由で逮捕している。これらの問題では言論の自由を巡る反論が出ている。

一方、SNSの議論は攻撃的になる傾向が強い。アメリカではトランプ氏銃撃事件や学校での銃乱射事件が起きている。精神的に不安定な若者がSNSに触発されて事件を起こしている。またイギリスでも移民排斥運動が広がった。

日本ではSNSが暴力を拡散する事例は多くない。代わりに「一方的なエビデンス」を求め相手が提示できないと相手の反論から目を背けるという「論破」が新しい言論スタイルとして子どもたちの間に広がりつつある。

こうした事態を防ぐためには「穏健な言い争い」を管理し「そもそも人々はわかりあえない」が「それでも共存していかなければならない」ことをわからせる必要がある。だがその取組は広がっていない。そんな場所を作っても利益が得られないからである。

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ブラジルでXの閲覧停止に抗議するデモが起きた。左派のルラ大統領に対抗するためにボルソナロ氏が呼びかけたものと伝えられている。確かにXのイーロン・マスク氏はトランプ氏へと接近していてXではトランプ政権寄りの投稿が増えている。その中にはイーロン・マスク氏の投稿も含まれる。広告収入は激減しているそうだがテスラなどを守るためにはトランプ氏に敵対視してほしくないのかもしれない。

アメリカの司法省が「ロシアのテレビ局が右派のインフルエンサーにお金を払って動画を作らせている」と警告している。右派インフルエンサーはお小遣い稼ぎをしながらトランプ氏を支援できると思っていたのだろうが、実際にはロシアのエージェントになっていたというわけだ。インフルエンサーたちは「自分たちは被害者だった」と訴えている。

このようにSNSはすでに政治的闘争を煽るプラットフォームなっている。

闘争には金銭的価値があるようだ。人々は競うように刺激的な言論に引き寄せられてゆく。

イギリスではクリック数稼ぎのウェブサイトが広めたフェイクニュースが暴動に発展した。中には北米大陸からの情報もあったとBBCは伝える。アメリカでは党派間の争いが日々ネットでくりひろげられており、家庭環境や精神的な不安定さを抱えた若者を刺激している。中には家族から銃を譲り受けたと言う人もいる。トランプ氏銃撃事件や学校での銃乱射事件のニュースを見るとお約束のようにネットの影響がうかがえる。彼らは党派対立と自分の境遇を重ねてしまい破滅的な行動に出る。これを「拡大自殺」という人もいる。実際にトランプ支持者の中には自分たちの気に入らない政府は破壊されるべきだと考える人達もいるようだ。人は存在に関わるような不安定さには長時間耐えられず例え不合理であっても何らかの行動を起こすことを選択するものだ。

日本は例外的にこうした政治的闘争が起こらない。だが、過去にはDappiと呼ばれるアカウントが立憲民主党を攻撃すると言う事件も起きている。このときには自民党の影響も囁かれたが裁判所はこの問題には触れずじまいだった。日本の司法は政治的闘争に巻き込まれたくないと言う気持ちが強いのだ。Dappiには水掛け論を誘発し立憲民主党の政権攻撃を無効化する狙いがあったのだろう。背後に誰がいたのかはわからないが、安倍政権の延命につながった。

Dappiは、自民党の歴代経理局長が役員を務める代金回収会社や、自民党東京都連と取引がある。自民党との関係性が取り沙汰されていたが、判決では言及がなかった。

Dappi裁判で立民議員の勝訴確定…でも「黒幕」は逃げきった 「会社ぐるみ」と認定されても控訴せず(東京新聞)

だが日本でもやはり脆弱な若者や子どもたちはネット言論の影響を受けている。それが「論破」である。一方的に「エビデンス」を要求し納得できなければ「相手の言論は無効である」と宣言するという手法だ。

気が弱い日本人は立場が上の相手に何か言われたら受け入れなければならないと考えてしまう。そこで「エビデンス」といういっけん科学的・論理的に見えるものを導入して非論理的に相手を否定してしまうのだ。

日本の言論には別の問題もある。それがダブルバインドだ。自民党の総裁選挙で小林鷹之候補は「これからの日本人は自分で考える力をつけるのが大切だ」と主張している。このように「教育の重要性」を訴える人は多い。

ところが自分で考えた結果を発表しても先生やクラスメイトと意見が極端に違っていると叩かれる場合がある。自分で考えて意思決定することは重要とされるが「違いを認める」教育は行なわれないのが日本の現状だ。

日本の企業は「自分で物事を考える個性的な人材」を求める。だが実際に個性を発揮してしまうと「自分の意見をズケズケ言う人は管理しにくい」として排除する。大人がいう「自分で物事を考える人材」は「自分たちに従う限りにおいては」という限定条件がつく。つまり自分考えた結果は「組織のために利益をもたらす」行動に繋がらなければならない。

何が叩かれるのかはその場の空気によって決まるのだから「何も言わない・何も考えないで周りに合わせる」のがもっとも安全かつ確実な生き残り戦略になってしまうのだ。就職活動で「服装自由」と言われても真に受けてはいけない。たいていドレスコードがあり企業によってそれは違っている。結局「自ら考えて無難な行動を選べ」と言っている。

こうした不毛かつ有害な言論を防ぐためには、世の中には折り合わない意見があり人間は本質的に分かり会うことなど不可能だがそれでも共存していかなければならないということを学ばなければならない。しかし、SNSではそうした取り組みはほとんど行なわれていない。そうした場所を維持・運営しても金銭的な利益が得られないからである。

欧米では闘争的な言論が好まれる。これを政治的に利用する人もいるが若者はまともに受け取ってしまい一部は暴力的な行動を起こすことになる。一方、もともと同調圧力が強い日本では「相手の主張を受け入れない理由」としてネット言論が利用される。

こうしてSNSは次第にパンドラの箱と化してゆく。ネットの中にはありとあらゆる対立的で矛盾に満ちた言論が詰まっており全体的な落とし所は見つからない。

「言論の自由」と「フェイクニュースの防止」はどちらも問題の解決にならない。まず論理的に情報を精査する方法を学校などで教えるべきなのだろう。だが、最終的には議論を尽くしても全く折り合わないこともあると示す以外に問題の解決にはつながらないだろう。

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