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斎藤幸平さんがジェットコースターに乗っても左派信者が増えない理由

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斎藤幸平さんというコメンテータの人がいる。テレビに出ているのは知っていたが、個人的には富士急ハイランドでジェットコースターに乗せられた映像で認知した。極左のマルキスト(マルクス主義者)なのだそうだ。このエントリーでは斎藤さんがジェットコースターに乗っても左派信者が増えない理由について考える。

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まず「極左思想とはなにか」を定義しなければならない。ここでは仮に人類が理性を使い闘争本能や集団防衛本能を超越することで人類全体の幸福の総和を最大化する試みと置いておく。

斎藤さんは1987年生れだそうだ。ほぼバブル景気を知らず終身雇用に支えられていた標準家庭もイメージできない世代である。都市化が進む前にあった地域社会中心の日本も経験していない。

蓮舫陣営の失敗を見ても明らかなように左派思想は広がりを見せておらずそれを浸透させるための試みもことごとく失敗している。斎藤さんはそこに問題意識を持っているようだ。悪辣なプロデューサの口車に乗せられてジェットコースターに乗ったり西村ひろゆき氏と対談したりしている。

さて、そんな斉藤さんには共演NGの人が三人いるという。西村ひろゆき氏はそのうちの一人である。共演NGの理由は「自分の支持者が共演を嫌がるから」だそうだ。

ここから左派の特質がわかる。それは清潔願望である。サニタリ信仰といって良い。アルコール除菌スプレーを持って部屋中を拭きまわるという行動様式だ。嫌われて当然だが本人たちは気がついていない。

どうやら左派の人たちは誰かが少しでも彼らのレッドラインに触れる発言をすると、その人は完全に汚れてしまったとみなし対話を拒絶するようだ。斎藤さんは成田悠輔氏などを代表例として挙げている。

ここにここで思想の変質が起きている。斉藤さんが極左である理由はよくわからないが少なくとも除菌スプレーをを持った人たちに囲まれている。つまり理性が本能を超克しなければならないという思想は本能に絡め取られている。

外から戻ってきたら手を洗うのは当たり前だ。床に落ちたおまんじゅうはいくら洗ってもキレイにはならない。日本人が持っている清穢の感覚が日本の左派に染み渡っている事がわかる。西村ひろゆき氏や成田悠輔氏は「床に落ちたおまんじゅう」でありもはや触ってはいけないものなのである。

「外から戻ってきたら手を洗わなければならない」理由を合理的に説明したいと考えるひとはいない。それは自明の理であり証明の必要はない。左派のいらだちはつまり「なぜこんなアタリマエのことが他の人達には伝わらないのだろう」ということだ。

清潔さは正解でありその正解からの逸脱は許されない。このように「正解」というキーワードを置くと西村ひろゆき氏の発言も同じような伝わり方をしていることがわかる。

西村氏の発言は要するに

  • なにかの運動を成功させるためには、目標と指標を決めて、成果を1つでも多く積み上げましょう
  • 無理なことをやると続かないので、できるだけ効率的に疲れないように続けましょう

というものだ。

西村氏のMBAの一年目に習うような極めて当たり前の合理的主張でありなんら新しいところはない。西村氏はパソコンを児童養護施設に配るなどこの原則に従っていくつかの社会福祉的なプロジェクトを実践している。

ところが斎藤氏と西村氏が観察するところでは、西村氏の言動がウケル理由は「すでに成功していることがわかっている人」の発言を暗記して実行すればコスパよく成功することができるというものだ。確かに西村氏は「要領よく成功しましょう」とは言っているが、それだけが抜き出されて切り抜き動画の形で「効率よく」大量増殖している。

ここから、両者の共通点がわかる。それが「正解」である。世の中には「正解」があると多くの人が思い込んでいる。

ところが西村氏も斎藤氏も実は「探索型」だ。ことさ世の中に正解があるとは考えておらず試行錯誤を通じて世の中にない答えを導き出そうとする。斎藤さんのミッションはおそらくは問題解決志向を持った探索型の同士を増やすことであり、左派運動を広めることではない。

日本の教育は「効率よく知識を学ぶことでそこそこの人材を育てる」ためにデザインされているのだから、そうではない「探索型」を探すのはかなり難しい。

視点を変えて、斎藤氏の「ヨーロッパのように左派思想が広がらない理由」についても考えてみたい。日本人左派が持つ清潔志向はベックが主張したリスク社会に対する正常な反応だ。ドイツでは国民が政治に参加できることになっているため(ヒトラーの失敗から住民の政治参加が寄り求め等るようになった)抗リスク運動が政治運動化したと単純化できる。

ところが日本はそうならなかった。アメリカはもともと日本を赤化させてはいけないと言う基本方針を持っていた。円の価格を低く抑えることで日本に豊かさをもたらすという方針を取る。日本は資本主義のショーケースと言われた。結果的に日本人は理屈はわからなくても自由主義を信仰すれば豊かな生活が得られると学習する。西村氏が言うところの「成果」を信じたのだ。

斎藤氏が生まれた1987年はその頂点であって、その後の日本人はこの「成果」を享受できなくなる。そしてかつての成功体験は「見失いはしたがどこかにある」とみなされるようになった。

結果的に日本はどうなったか。通勤電車に乗ってみればわかる。誰も彼もがスマホに目を落とし自分の社会に没頭している。会社についてからは最低限の仕事を済ませ自由時間はスマホに目を落としている。彼らは会社の電話が怖くて取れない。誰が電話をかけてくるかがわからないからだ。

現在の日本人が自由にコントロールできるのは自分のドメイン(領域)だけであり、それは自宅とスマホの中にしかない。つまり左派の目標は自分の領分を常にアルコール除菌し異物を持ち込まないことだけなのだ。

このように考えると、今回の短く乱暴な考察で最も深刻なのは「時代背景」かもしれない。

戦後の日本にはまだ地域社会が残っていた。年齢の違う子どもたちが集団を作り年上の子が年下の子の面倒を見るという時代だ。地域社会が果たしてきた役割は会社に引き継がれる。社員は家族であり社員同士のつながりが団地などで維持されていた。ところがバブルが崩壊すると社員は家族同然と言う価値観も失われる。

政治もコミュニティ創出の役割を果たさなかった。地方分権が進んだドイツでは各州が様々な支援を行って企業を囲い込む動きがある。ところが日本にはそのような成功例はなく企業は容赦なく海外に流出している。RIETIがドイツの地方政府の取り組みを紹介している。

例えばこんな事例もある。自由民主党は政治と金の問題を解決できていない。自民党が個人商店化しているからである。支援者と資金はそれぞれの政治家が集めて来て上納する必要がある。政治家が困窮しても政党は助けてくれない。かつては互助組織的な派閥があったがそれも形骸化しなくなりつつある。それぞれ自己責任でお金と支持者を集めてきているので議員たちが企業や特定の宗教団体に汚染されていても本部は全く対処ができない。本来の集団主義は個人は集団を助け集団は個人を助けるという相互主義が原則だが日本ではそれが崩壊しつつある。

右を見ても左を見ても「集団や社会はなんのために存在するか」という答えがない。だが集団は存在する。

高橋弘樹氏の提案は古典的なベルクソン的な笑いである。「崩すことで笑いが生まれる」のだから裾野を広げるためには効果的な提案だと思う。

斎藤氏だけでなく理性によって狭い個人の本能によるつぶしあいを超克すべきだと考える人はいくつものチャレンジにさらされている。

  • 理性によって本能を超克するとこんなにいいことがあると説明する必要があるが、依って立つモデルがない。
  • このときに「みんなが幸せになる」と問題を置くと「功利」に訴えかけることになり「リスクが軽減できる」と問題を置くと清潔進行に訴えることになる。これをマネージしてゆかなければならない
  • さらに日本人は「自分たちが政治に関与できるはずなどない」というメンタルブロックを抱えている事が多い。この思い込みを超えるのもなかなか大変そうだ。

となるとまずできることは異業種・異分野対話を増やしてアイディアの裾野を広下てゆかなければならないということになる。

斎藤氏がジェットコースターに乗ったからと言って信者は増えない。むしろ探索型の人は信者から脱却する必要があり、そのためには異業種間の対話を増やしてゆくしかないのだ。

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