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「一体何に注意すればよいのかわからない」巨大地震注意報に戸惑う外国人

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巨大地震注意報について読売新聞が「一体何に注意すればいいかわからない」と戸惑う外国人の声を拾っている。これを読んで「一体何に注意すればいいかわかっている」日本人がいたら連れてきてほしいものだと思った。日本人の「リスク」に対する特異な感覚がよく分かる記事だ。日本人は巨大地震よりももっと大きなものを恐れている。それは他人の目である。

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外国人は巨大地震注意報に戸惑っている。彼らは「巨大地震が起きる可能性がある」と知らされると「ではどこに逃げようか」と具体的に考える。そしてそのための情報がないと戸惑う。図式化すると次のようになる。

リスク → 個人で適切に行動しなくては

仮に費用がかかることになると「ではどれくらいの確からしさで起きるのか」と考えるだろう。

だが、日本人は「ではどこに逃げようか」などと具体的に考えない。SNSに出てくる情報を見ると水がなくなったり防災グッズが売り切れたりしているそうだ。図式化するとこうなる。

注意報 → みんなの認識 → みんなに適切に行動しなくては

注意報が出ているのだから「浮かれた行動は自粛しなければならない」と考えるのが日本人だ。またみんなが水や防災グッズを買うかもしれないから急いで買わないといけない、みんなに合わせなければならないと考える。

みんなが警戒しているときに一人だけ浮かれていたら叩かれると考えてしまう。またみんながやっていることをやらないと出遅れる。注意報直後に宴会を行った地方政治家が叩かれたり、よさこいを辞退する人たちが出てくるのはそのためである。つまり、日本人は巨大地震がめったにこないことは理解しているが、自分たちが浮かれているところを人に見られたらどうしようとも考える。地震より人の目が怖い。

巨大地震がどの程度の確率で来るかにはあまり興味がなく、政府が「(なんだかよくわからないが)注意しろと言っている」ということのほうが重要である。地震の可能性と政府の認識の間には断絶があるが日本人はその断絶を気にしない。

「言われてみればそうかも」とは思うが自分で言語化するのは難しい。だが人々はほぼ確実に同じ行動原理に基づいて行動しており「人の目を気にする」という集団性が日本人の行動を深く支配していることがわかる。

現象と認識が乖離するために非常に奇妙なことが起こる。文脈に合わせて事実が変化してしてしまうのだ。巨大地震で言えばさまざまな被害が分布しているはずでその確率に合わせてリスクを考えなければならない。だが、日本人はそんな考え方はしない。

原子力発電所への巨大地震の影響は極小化される。「原発のお陰でメシが食えている人」が大勢いるからだ。一方で公共工事を地方に引き込むために極大化される。こちらは最も大きな災害の可能性が喧伝され「これを防ぐためには巨大なコンクリートの壁を作るか高い櫓を作って津波から非難するしかない」などと言われる。猪瀬直樹氏はこれをフィクションと呼んでいるそうだ。

日本人はこれに違和感を持たない。事象よりもそれが人々にどう解釈されるかのほうが重要だからである。特にテールリスクに関しては人々の事情や都合に合わせて極大・極小解釈されるので実際に何かが起きるとその想定は大きく外れることになる。だが日本人はそれに備えて便利な言葉を発見した。

「こんな事が起きるとは思わなかった」「想定外だった」

結局、思惑に歪められた予想が外れても誰も責任を取らないのだ。同じようなことは災害だけでなく安全保障でも見られる。中国が台湾に攻めてくると言う有事は極大解釈されるが、アメリカが日本を見捨てるかもしれないという恐れは極小解釈されている。

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