エマニュエル駐日大使の長崎式典ボイコットが静かな波紋を広げている。アメリカ合衆国(特に民主党側)の認識がわかってよかったのではないかと個人的には思う。ただし、中には本気でアメリカの偽善ぶりに落胆した人もいるかもしれない。憤りというより「なんかがっかりだ」という空虚な気持ちだ。この感情は減税のアメリカ政治を分析するうえでは非常に重要だ。
エマニュエル駐日大使の長崎式典ボイコットは大使の個人的な動機に基づいているものと考えられる。共同通信はハリス政権ができたら1月の就任を待たずに11月にワシントンDCに帰国したいとする本人の希望を伝えている。彼の野心は政治の中心から離れた僻地日本では満たされなかったのだろう。
メジャーなメディアは伝えないが東京スポーツが「ミラー報道官の発言」を記事にしている。留学経験のある人に聞いたという表現が微笑ましいが、ミラー報道官は式典をセレブレーション(お祝い)と表現したそうだ。長崎の被爆者の声は最初からアメリカには届いていない。「なんかわからないことをやっているが、きっとアニバーサリーかなんかなんだろう」くらいの認識なのかもしれない。
オバマ大統領は「核なき世界」という崇高な理想を訴えてノーベル平和賞を獲得した。しかしその後、核兵器廃絶に本気で取り組んだかどうかは極めて疑わしい。しかし核兵器廃絶主義者という仮面を脱ぐわけにはいかなくなり広島訪問が実現する。オバマが日本に屈服するのではないかと言う批判が高まり「断固謝罪はしない」という方針を貫き通した。
バイデン大統領も原爆資料館の被害展示の観覧を拒否した。結局東館にそれなりの体裁を整え他のG7参加者とともに非公開で訪問してもらっている。個人的に再訪問したのはカナダのトルドー首相だけだったようだ。
このようにアメリカの式典参加は最初から単なるポーズでありいわば偽善である。日本人はこのことに薄々気がついているのだがそれを口に出さない。しかし、今回の件で「ああやはり単なる偽善だったのだ」ということがよくわかった。
ではこの偽善がアメリカ政治を見るうえで重要なのか。
オバマ大統領は就任直後は中流層の復権を訴えて「我々はやり遂げられる」と主張した。共和党の副大統領候補になったJDバンス氏もこの流れに乗れるのではないかと考えたくらいだ。だが、やがて彼の政策は実はあまりアメリカ中流層の役に立っていないということがわかると期待は失望に変わった。実際にはハイテク企業や金融企業よりの政策が多かったとの指摘もある。
偽善であろうがやり遂げてもらえればそれはそれで構わない。問題はおそらく単なる掛け声で動かされた人たちがその偽善に気が付き「自分たちは利用されたのだ」と「ふと」気がついてしまう点にある。日本の民主党(偶然同じ名前だが)が2009年の中身のないマニフェストで落胆されたのと同じことがアメリカでも起きている。一度気がついた人は二度と戻ってこない。
時事通信は日本政府が「核軍縮に影響が出るのではないか」と懸念していると報道している。だが実際に懸念すべきなのは「やはりアメリカ合衆国は口先だけの国なのだ」と多くの人々が気がついてしまうことなのではないか。とはいえアメリカに守ってもらうしか道はないのだから人々はこの問題を直視しなくなるだろう。旧来型の左派的な極端な反米感情ではなく「静かな日米同盟離れ」が重要なのだ。
アメリカ合衆国は私利の追求が肯定されている国なのでエマニュエル駐日大使が自分の野心を満たすための政治運動を行うのは構わない、と個人的には思う。トップリーダーが大きな看板を掲げてその傘の下で私利を追求することはアメリカでは間違ったことではない。
だが今回はスポーツ紙レベルで「薄々感づいていたことだがああやはりアメリカは単なるポーズでよく意味がわからない集会に参加していたのだな」と理解されてしまう弊害は大きい。と同時に同じような落胆となんとも言えない空虚感を感じている人がトランプ氏に惹きつけられてゆくと言う気持ちも理解できないでないという気がする。やはりわたくしごとにならないと何事も理解されないものだ。
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