日本には現代的な法体系と価値観がある。命は崇高なものであり問題解決のために自殺をしてはいけない。しかしこの法体系と価値観は必ずしも守られていない。
一方で昔ながらの価値観が残っている。私心(わたくしごころ)を捨てて祟神(たたりがみ)になれば誰もそれに逆らえないという構図だ。こちらの構図はすべて漢字を使わずに和語で説明できる。
元兵庫県西播磨県民局長は「死を持って抗議」する意思を持っていた事がわかってきた。こうなると誰もその意志に逆らえなくなり鎮めの儀式が必要になる。それは周りのものが禊して誰かを流しそれを納めることで誰かを奉ることだ。
だが果たして本当にそんな問題解決で良いのかという気分になる。
もともとは県知事のパワハラ問題だった。だが県知事には県知事一派(とりまき)の村が形成されている。彼らは元県民局長の指摘を村への攻撃とみなした。そこで副知事が人事課長を伴い県民局を急襲しパソコンを奪った。また維新の県議の中には「吊し上げ」を迫った者がいるととも報道されている。
村から見れば元県民局長の行為は村の和を乱す「私心(わたくしごころ)」による裏切りであるから排除されなければならない。彼らの戦略はパソコンを奪い証拠を集めて7つの告発以外の件で元県民局長を追い詰め信憑性を奪うというものだ。つまり彼の行為を「邪(よこしま)なもの」として社会的に抹殺しようとした。
ではこれに対抗するにはどうすればいいのか。何らかの手段で私心を捨てれば良い。「神上(かむあ)がり」という。今では天皇の崩御で使われる言葉だが昔はそうではなかった。雷神となった菅原道真にこんな逸話がある。
元県民局長は県庁のためを思い命を投げ出した。その時に「死を持って抗議する」という手紙を残し証拠を百条委員会に提出した。
こうなると県知事とその取り巻きたちは抵抗手段を失ってしまう。彼らは村の私益のために個人を追い詰めた極悪人ということになり社会から攻撃される。これが「祟神」の構造である。最も大切なものを捧げると地位が逆転する。
この中心にいる人物は間違いなく斎藤元彦県知事だ。知事はあくまでも信頼回復のために県知事を続けると言っている。
しかしながらおそらく渦中の人物は維新の県議団と副知事だろう。副知事は「県知事を守れなかった」と涙ながらに退任するが「面倒な問題から逃げ出したい」と考えているだけかもしれない。
幹事長は「吊るし上げなどない」と言っているが具体的な調査は何もしていない。そもそもこの幹事長が「吊し上げの当事者でない」という証拠がない。「維新クオリティ」と言ってしまえばそれまでだが場当たり的で人の心がない。
個々の構造はやや特殊だが説明はできる。彼らは「自分たちの立場」と「県の統治はどうあるべきか」という課題が癒着している。日本人が総括できないのは課題と人格を分離できなからである。これは副知事の退任会見によく現れている。彼は課題が全く整理できておらず「泣きながら」支離滅裂な事を言っている。神上がりに恐れおののいているのである。
たた、このケースを見ていると、そもそもなぜ県民局長が祟神にならなければならなかったのががよくわからない。まず冷静に考えなければならないのは元県民局長のご家族がどう思っているかだろう。個人としては尊重されず職務上の悩みを抱えたうえでやむにやまれぬ判断をした。退職すれば悠々自適の生活が送れたかもしないがその望みは断ち切られた。「神になりみんなを救いましたね」で納得させられるはずなどない。
我が国は近代的法治国家であり公益通報制度も整備されている。つまり公益通報者の命(肉体的な意味ばかりではなく社会的な意味でもだ)を守る仕組みがある。しかし法の精神と制度を守ろうとする意思は極めて脆弱でローカルルールである「村の掟」意識が優先される。課題と人格の分離もできていない。また個人と村の意識も癒着している。そして、その対抗策も極めて民俗学的で「死を持ってわたくしを乗り越える」という行為だった。
我々は安易に0570の番号を提示し「悩みがある人はここに電話してください」等とこの問題を片付けるべきではない。それは単なる思考停止である。祟神化など絶対にあってはならないというのならこの問題をどう解決すべきだったかを真剣に考えるべきだろう。
いずれにせよ、一旦民俗学的な領域に入ってしまった問題は民俗学的に処理するしかない。首謀者は流され周囲の者は一定期間の禊(みそぎ)が必要になる。そしてそれを供えることで個人を奉(たて・まつる)ることになる。
しかしそれも社会的な問題を解決するだけであって、おそらく県庁に入った「人事課長が善意の告発者を売るのに加担した」という組織上の亀裂は解決しないだろう。