モーゼの十戒に「神の名をみだりに唱えてはならない」という条項がある。だが、実際のアメリカ人は神の名を唱えるのが好きだ。バイデン大統領は立候補を停められるのは万能の主だけと語り、暗殺未遂事件を生き残ったトランプ候補はsaved “by luck or by God”(幸運か上によって護られた)と語った。これらのフレーズはおそらく大統領選挙までアメリカを深く傷つけることになるだろう。上に寄って護られた正義は1つではない。だから「どちらの神が正しいか決着をつけようではないか」ということになるからである。
まず最初に神の名を語ったのはバイデン大統領だった。討論会の失敗を受けて「自分を撤退させることができるのは万能の主だけ」と語った。聖書の教えを厳格に守る人は「みだりに神の「名」を語ること」を嫌い婉曲に「万能の主(Load)」などと言い換える。これはなにか運命的なことが起こらない限り誰も再選を拒む事ができないという意味である。つまり正義は自分の側にあると言っている。
その後、不思議なことが起こった。おそらく精神衛生的な問題がなく政治的主張もなさそうな青年がいる。頭は良かったが武器に強いあこがれを持っていた。高校のライフルクラブに入ろうとするが銃の才能はないと判断される。
彼はたまたま銃が簡単に手に入る国に生まれたまたま分断された時代に自我を確立した。問題解決のためや自己表現のためには武器を使っても構わないというような空気が蔓延している時代だ。そして訪れた会場の周辺警備はたまたま手薄でたまたま大統領候補を狙えそうな場所に陣取ることができた。しかし彼はプロの射撃手ではなくトランプ氏はたまたま首を一定の方向に動かした。だからトランプ氏は死ななかった。
多くの偶然が重なり暗殺未遂事件が起き他可能性が高いわけだがたまたま居合わせた報道写真家がきれいな三分割法で英雄的な写真を作り出した。そしてそれは瞬く間にSNSを席巻し誰もがトランプ氏の力強さを称賛することになった。
人間がこんなシナリオを書けるはずはないしそもそも神がいるかどうかはよくわからない。だが、結果的にバイデン大統領の予言は自己実現化してしまうかもしれない。彼は民主党の候補として居残ることはできるだろうが(民主党のバイデンおろしは一時的にではあるが収まっている)このままでは大統領になれないかもしれない。人はそこに「なにか大きなものの意思」を見る。
トランプ氏にとっては別の追い風もある。最高裁判所が公務中の大統領の行為には広く免責が認められると宣言した。このため文書持ち出し裁判は棄却される見込みだ。トランプ陣営はその他の裁判についても(重罪が4ケースある)同様の措置を求めている。
バイデン氏はトランプ氏を「重罪人(Felon)」と呼び民主主義の破壊者であると位置づけてきた。だが、このキャンペーンが継続できなくなる可能性が高まっている。国内の分断を煽りトランプ氏の銃撃事件のきっかけを作ったとみなされているからである。一転して対立をやめ団結するように訴えている。高齢不安があり選挙キャンペーンの軸を失った「弱い」現職とSNSによって自我が強化された英雄の元職の対決である。
英雄化・神格化が進むトランプ氏には2つの可能な進路があった。1つは「人間トランプ」と「英雄トランプ」の間に埋めがたい乖離がうまれ人間トランプが潰れてしまうという進路だ。だがこの予想は外れつつある。「神格化された英雄」としての自己像が「人間トランプ」を飲み込みつつある。それが「自分は運命か神かは知らないがなにか大きなものに護られている」という肥大化した自己像を生み出している。
ではこれはアメリカ合衆国を再び偉大な国にするのか。もちろんトランプ氏とトランプ陣営はトランプ大統領の再選こそが「偉大な国家を再興する神の意志である」と考えるだろう。だがそう考えない人もいる。彼らは必死になって「自分たちが神の意志に反していない」ことを証明しようとするだろう。そして彼らもまた手に武器を持っている。
本来の十戒の趣旨は「神の意志は人間の手の届かないところにありその裁定を人は受け入れなければならない」という意味だろう。つまり何人たりとも神の権威を背景に自分の欲望を語ってはいけないということだ。日本には神に対するおそれやかしこまりという概念がある。
モーゼの時代にはまた別の要請があった。当時のユダヤ人はエジプトから逃れてきた隷属民でありそれぞれの偶像を神として崇めていた。モーゼはこれを抽象化し「ユダヤ」という民族を作ろうしたのだ。神という言い方を好まないのであれば抽象的な一神教は民族統治のための発明だった。
だがアメリカ合衆国はその原則を忘れてしまっており誰もが神の名を語り自身の正義を正当化している。
イアン・ブレマー氏はこれがアメリカ独特の混乱を引き起こすだろうと懸念している。ブレマー氏は大統領選に向けてアメリカ合衆国で暴力の連鎖が広がることを恐れているようだ。それは9.11のような外からの攻撃でも南北戦争(アメリカでは市民戦争と呼ばれる)のように構造化されたものでもない。
まさに市民一人ひとりが参加する「万人闘争」である。さらにいえばアメリカ合衆国では自分を「敵」から守るために武装する権利が認められている。
当初、トランプ氏の「運命か神に護られている発言」を聞いたときには、この肥大化した自己像は世界の外交や安全保障にとてつもなく悪いインパクトを与えるだろうと考えた。だが考えを進めてゆくうちに「そもそもアメリカの国内がまとまることはないのだろう」と考えた。
おそらくモーゼの言ったことは正しかった。神の名を不用意に口に出して自らの運命を語ってはいけない。国としてまとまることができなくなり万人闘争が始まってしまうからである。
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