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政治的発言はしないでくださいという闇

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ここのところ何日か「左翼の正体」というエントリーを書こうと思っていたのだが、あまりにもひどすぎてやめることにした。左翼は現状に不安を持ってはいるが、具体的なアイディアはない。福祉予算を上げろとは主張するのだが、それをどのように調達してくるべきなのかは考えない。また、戦争には反対するが、どのようにしたら争いが起らないかということは「お前らで努力しろ」などという。
考えが変わったのはTwitterで「派遣会社に登録するときに、Twitterで政治的な発言はするな」と言われたという呟きを見たからだ。なんとなく、Twitterの「政治的発言」がエスカレートする理由が分かったように思えた。
この呟きが重要なのは、普段政治について考えることがなかった人たちが、政治について考えて発言せざるを得ない状態に追い込まれているからである。低い賃金では暮らして行けず、保育や子育てなどの政策がうまく整合していない。そして、それが国政に起因することを知っているのだ。
だが「表立った政治的な発言はするな」という言動は、割とありふれた経験なのではないかと思う。
個人的な経験では面接で「ブログはやめろ」と言われたことがある。子供の人権についての活動をしている団体だった。驚きだったのは、その人があまり悪気がなさそうだったということだ。人権について考えていても、他人の発言する権利というものをいとも簡単に侵害してしまうのだ。「自分たちは良いことをしている」という気持ちが油断を生むのかもしれないし、団体の考え方と違ったことを言っては不都合が生じるかもしれないという気持ちがあったのだろう。
このように日本人にとって「普通の人は、自分自身の考えを持たないし、持ったとしても表明しない」と考えるのは割と普通のことだ。「表立った席では自分の主張は控えるべきだ」と考える人も多い。
「お互いが違っている」ということを極端に恐れる社会だと言える。また「女は黙って男に従うべきだ」とか「労働者は死ぬまで雇用主に尽くすべきだ」などと、表立っては言わないが、かなり極端な政治的な意見を持っている人も多いのかもしれない。
なぜこれが「闇」なのだろうか。それは「安倍政権が社会に圧力をかけている」ことが問題なのだろうか。恐らくそうではないだろう。
そもそも、政治的発言は普段の生活と地続きになっている。
自分の街はどういう街であるべきかとか、人に優しい社会をどう作って行くのかということを考えるのは政治の一部だ。ところが、日本人はそこから切断されたうえで、いきなり外交・安保・エネルギー政策などの大きな問題に接続してしまう。その政治的主張は実感から遊離してしまうのだ。
普段から政治的な発言をしないので、他人の批判に晒されることもない。そのために匿名で政治的な発言をすると(それなりに思い切っているからだろう)いきなり過激化してしまうことが多い。たいていは他人の影響を受けており、考えに基礎がない。
特に、「今の社会には改善の余地がある」と考えることは反体制だと見なされがちだ。すると「体制に乗っていればどんな発言をしても良いのだ」と考える人が出てくる。とはいえ、対象についてあまり考えた風には見えない。単に罵倒することが「正義だ」ということになってしまうのだ。
結果的に、解決策を提示せずに半匿名で相手を罵倒しあうことが「政治的な発言だ」ということになってしまった。その裏で政治的発言をしない人たちは「もうがんばっても仕方がない」と考えるが「不具合があっても誰かがなんとかしてくれるだろう」と思うようになる。こうした集団的な思考は極めて危険だ。さらに、その裏にはとんでもなく過激な主張(弱者は死んでしまえ)を当然のものとして隠している人たちが潜んでいる。
状況を嘆くのは簡単だが、状況が変わることはないだろう。それよりも、自分たちが無意識に持っている「恐れ」を克服する必要がある。記事に「いいね」をしても、他人の発言をRetweetしても状況が変わることはない。まずは、できる範囲で自分の考えを表明することが重要である。だが、意見表明だけでは不十分で「私はこう思う」のあとに「なぜならば……」と続けることが重要なのではないだろうか。そこではじめて、自分が考えたものなのか、他人の意見に乗っているだけ七日ということが分かる。
もし他人の意見に乗っているだけなのであれば、それは「個人で意見表明してはいけない」という側の人間だということになる。進んで、何かの体制の一部になっているのである。


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