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発達障害を問題視することの何が問題なのか

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「発達障害に気がつかないままに大人になるとどんなことになるのか」というビデオをYouTubeで見た。これは非常に危険なメッセージだなあと感じ、最後まで見ることができなかった。
ビデオの主人公は大学生なのだが、部屋が片付けられず、履歴書がきっちりと手書きできない。何かに夢中になると他のことが分からなくなるために、バイトに遅れたりするという特徴を持っており、人の話が聞けない。このために就職できない。だから「障害だ」というのである。
だが、バブルが崩壊するまではこういう人でもきっちりと就職ができた。大学には入れているわけで、基本的な学力はあるものと考えられる。コミュニケーションが取れない職人気質の人というのも珍しくなかった。こういう人たちは「研究者気質だ」と言われて尊敬されすらしていた。特に理系の場合には研究室からの紹介制度があり、コミュニケーション能力だけでその人の適性が図られることはなかったのだ。
どうしてそれが成り立っていたのかを説明するのは少々難しい。イノベーションについて知らなければならないからだ。イノベーションには2つの段階がある。最初の段階は「カオス」でありマネージできない。そして、それを精緻化してゆく。精緻化のためには組織力が必要である。さらにそれを売り込むためには高度なマネジメントが必要だと考えられる。これは「ろうと」に例えられる。クレイトン・クリステンセンによれば「失敗を認めない」文化が(少なくともイノベーションの初期の段階には)必要だ。
いわゆる「発達障害」に当たる気質はイノベーションには欠かせない。既存のルールに捉われず、一つのことに夢中になるからこそ、既存のルールを超えて行くことができるわけである。
一方、現在の就職活動は「きっちり管理する能力を測る」ことで、この管理できない「カオス」を排除している。ここはある意味ムダな領域なのだが、そのムダな領域がないと新しい価値は生み出されない。つまり、日本人は日々の努力を通じて、イノベーションの芽を摘み取っているのだ。
では、なぜ日本ではイノベーションの芽が摘み取られているのだろうか。それは生産段階では邪魔な気質だからである。例えば日本の品質管理に学んだというシックス・シグマは失敗をはじくための手法だ。マネジメント層は失敗をする人が求められるのだが、被マネジメント層は失敗してはいけない。被マネジメントからマネジメントに上がるパスがあると、失敗ができる人を排除してしまうことになってしまうのだ。
では日本人が失敗を排除する合理的な思考を持っているかと言われるとそれも疑問だ。
この典型が手書きの履歴書である。履歴書は情報をつめた物だから、合理的に考えれば手書きでなくても構わないはずだ。データとしての共通書式があれば、効率化ができるかもしれない。アメリカの場合にはパソコンを使って、書式を自分で工夫して書く。担当者が読みやすいように数枚のレジュメにするのが一般的だ。人事担当者は職が空いたときにそれを見るのだ。しかし、日本人はそれをやらない。苦痛を与えることで精神修養を目指すという独特の価値観があるからかもしれない、と考えられるが、実際には一括採用するからだろう。効率化と称して一括採用をやるのだが、これが実際に効率的なのかはよく分からない。毎年ルールが代わり、そのたびに人事部と学生が振り回されている。繁忙期にリソースが集中して通期でみるとムダも多い。
このやり方は会社に入ってからも続くのだが、生産性に大きな影響を与える。「手書きする時間があったら、合理化して企業研究に充てたい」というような、個人が生産性を上げる工夫は通りにくい。例えば、ムダの多い先例を忠実になぞるようなプログラミングで業務支援プログラムを組んだりするのがその典型である。IT化が遅れ、日本の生産性は向上しなかった。
このために不合理なルールが残り「空気を読める」人たちだけが抽出されることになる。そこで思い切った発想ができる人などが排除されてゆくことになる。
発達障害のビデオに戻る。例えばリマインダーを作ることで、課題やアルバイトの期日を管理したり、履歴書をコンピュータ管理したりすることで、いくらでも「障害」をバックアップできるはずだ。だが、それを日本人はそれを嫌がるのだ。
「発達障害」とか「コミュニケーション障害」といった言葉がどの程度蔓延しているのかは分からないのだが、これは厳密には「障害」とは言えないと思う。しかし、それを実感するためには英語を習得することが重要なのだろう。