兵庫県副知事が辞任した。解任会見では涙を流し兵庫県知事にも辞任を求めたが応じてくれなかったと説明した。だがおそらくこの副知事は西播磨県民局長を追い詰めた張本人である可能性がある。すると自己保身のために個人を追い詰めて自分だけは涙ながらに逃げたことになってしまう。
記事をよく読むと「元県民局長が亡くなった」ことや「県政を混乱させたこと」で泣いているのではない。知事を支えられなかったことに泣いているのである。
もちろん、この人が追い詰めた張本人化どうかはわからない。デイリー新潮には「副知事」とだけ書かれている。
だが2名いたうちの1名の副知事さんはもう退任しているそうだ。
兵庫県にはもともと荒木さんという副知事がいたが2022年3月末に退任した。すると西播磨県民局を急襲し情報が入ったパソコンを抑えた実行役ということになる。なお荒木氏は「老兵は立ち去るのみ」と言い残しており退任の理由は明らかにしていない。
片山副知事は一度県庁から離れていたが斎藤元彦新知事の誕生とともに県庁に呼び戻された経緯がある。就任当時「笑いを誘うなど人懐こさと明朗さ」が印象的だったそうだ。一方で経歴を見ると人事畑を歩み西播磨県民局長経験もあるようだ。つまり当初「人事畑」への影響力を行使し本来は保護されるべきホイッスルブローワー(内部告発者)を組織に対する裏切り者に仕立てた上で晒し上げた可能性が否定できない。
今回の問題を見ていると「選挙で選ばれたのだからこの人のもとでやってゆくしかない」と切羽詰まった兵庫県庁幹部が副知事を筆頭に組織防衛に図り裏切り者を排除しようとしたという寒々しい可能性が浮かんでくる。日本人が目の前の生活に固執し個人を切り捨て追い詰めてゆく様子がわかる。
しかしながらその当事者の一人ひとりを見ると「明るくて人情派のいい人」であり「とてもそんな問題は起こしそうにない」ふうにしか見えない。
こうした組織防衛のために排除されたのが元西播磨県民局長だったことになる。後輩のためと考えて勇気を持って告発したが組織的な人格攻撃の危険性にさらされた。
今回の件についてはもう一つ付け加えなければならない問題がある。
おそらくテレビなどで影響力のあるコメンテータが決して触れることは許されない「祟神(たたりがみ)文化」である。神道では「荒御霊(あらみたま)」ともいうそうだ。
日本人は告発者を異物として排除する傾向がある。また世論も決して個人は応援しない。その人に「私心(わたくしごころ)」があると考えるからだ。
ところがこれが一発逆転することがある。亡くなってしまえばもはや「私心」を発揮することはない。すると今度は一転して祟神になる。祟神になると今度はそれを祀り上げて守護神にするしかなくなってしまう。
つまり問題の解決には祟神になるのが一番ということになってしまう。しかしこれは「問題解決のための自殺は決してあってはならない」という現在のコードと激しくぶつかる。だからテレビでは0570の番号を提示し「悩みがある人は」と付け加えることで問題から逃げてしまう。
だがこの祟神問題を解決するためには内的心情からやむにやまれず告発を行ったものを守り「神にしない」仕組み作りが必要だ。
今回片山副知事はおそらく大きくなりすぎた問題と距離を置こうとしているのであろう。斎藤元彦知事は「神をも恐れぬ大胆さ」でこれに立ち向かうことになる。
片山氏は今回の件で涙しているが、その理由は知事を支えられなかったことであった。言っていることは支離滅裂だ。早くこの混乱から身を引きたいというのが本音だったと分析せざるを得ない。
- 退任の理由は「県政の混乱させている責任をとるため」
- 涙の理由は「ほんまに悔しゅうてしゃあない。一生懸命やっている知事を支えられなかった」と
知事の側に立って職員を追い詰めたとするとご本人曰く「一生懸命間を埋めようとした」という言葉がものすごく軽いものに見える。御本人はこのように弁明しているそうである。「調整」の内容について聞いてみたいところだが本人の口からはおそらく論理的な弁明は難しいのだろうと感じる。
「知事と職員の間は残念ながら距離があると言わざるを得なかったと思っています。副知事として指示をして、調整を進めてまいりましたが、力及ばなかったことの責任を痛感しているところでございます」