ざっくり解説 時々深掘り

オリンピック予算の膨張はなぜ起ったか

Xで投稿をシェア

カテゴリー:

小池新都知事が「オリンピックの予算膨張がどうして起きたか」ということを検証する委員会を作るそうだ。しかし、わざわざ委員会などを作らなくても、その原因は自明である。今回はなぜそれが自明なのかを考えてみたい。
その前に寄り道をする。
最近気になっている言動の一つに「憲法は国民が権力者を縛るもの」というものがある。これを展開すると「法律は国民を縛るもの」ということになる。憲法も法律も、約束事を作ることで社会を円滑に運営するために存在する。
例えば、野球にはルールが必要だ。ルールがあることで、野球という競技が成立する。憲法は意思決定の枠組みを決めたものであって、国民が意思決定にコミットするということを意味している。よって、憲法の枠組みで作られた法律に正統性が生まれるわけだ。野球は「自ら野球に出場したい」という人がいて始めて競技として成り立つわけで「いや俺はサッカーがやりたい」と言い出したところで、競技としては崩壊する。
故に野球のルールは「審判がプレイヤーを縛っている」とは言えない。審判とプレイヤーの関係は「ミューチュアル」だ。「お互いに同じ関係を持つ」という意味だが、日本語には適当な用語がない。適当な用語はないが、普段から全ての人が体験している。審判とプレイヤーはどちらが偉いということはないが、審判の言うことは絶対である。
審判がプレイヤーを支配しているという間違った概念から派生して出てくるのが「憲法は国民に価値観を提示するものだ」という憲法観だ。支配関係があるという誤認があるので、その支配関係を逆転しようという倒錯が生まれるのだ。プレイヤーが審判に指図できるという誤認が生まれるのだ。
だが、プレイヤーが審判に指図し始めたらどうなるだろうか。野球というスポーツが崩壊する。すると誰も野球が楽しめなくなる。
自民党はオリジナルに訓示的な憲法を考えだしたわけではない。もとにあるのは「天皇が国民に恩典として憲法を与える」という姿である。
だが、明治憲法の実情はかなり複雑だった。天皇は自ら権力を得たわけではなく、薩長土肥の権威拡大のために祭り上げられた存在である。形式上は天皇大権という強大な権力があったのだが、同時に天皇は一人で何も決めることができなかった。明治憲法下では天皇の解釈に関する議論が生まれ「政争の具」になった経緯があるほど曖昧な概念だった。
日本人は他者からの介入を極端に嫌う。このために議会、司法、軍部などがお互いに介入できない仕組みになっていた。形式的には天皇がすべてを取り仕切ることになっているのだが、実際には何もできなかった。つまり「俺のなわばりに入るなよ」ということだ。
明治憲法の欠点は明らかだ。実際の権力が巧みに空白になっていて、それが隠蔽されている。それでも事態は動いて行くのだが、何かあったときには誰も責任を取らない(あるいは取れない)という事態が生まれる。つまり、第二次世界大戦は集団思考(集団で意思決定することによって、結果的に無責任体制が生まれる)の悲惨な結果なのだ。
幸いにして、我々は「集団思考」が何をもたらすのかについて観察するチャンスに恵まれている。それが東京オリンピックの予算膨張だ。東京オリンピックは「コンパクト五輪」というコンセプトを持っているのだが、コンセプトを実現するためには、誰か強力な指導者が中心に存在する必要がある。ところが日本人は強力な実行者を置くことを嫌うので、各部署が思い思いに請求書を出し、予算が何倍にも膨らんでしまった。
当初のコンパクト五輪のコンセプトを遵守しようとすると「利権を侵害した」ことになり強力なバッシングが起きる。たいていは「あいつが俺がおいしい思いをするのを邪魔した」というくだらない私怨である。加えて「俺にもおいしい思いをさせろ」という人たちが隣の県からもやってきて状況をさらに混乱させるのだ。
その結果起っていることも簡単だ。関わる人たちがことごとく国民からバッシングを受け、知事たちが次々と失職していった。つまり、意思決定の権威そのものが失われてしまうのだ。
当初「自民党の憲法草案は天賦人権を否定することで抑圧国家を作る」と考えて反対していたのだが、考えを巡らせるうちに、そのようなことは起らないだろうなと考えるようになった。憲法に訓示的な規定や例外処理を置くと、憲法は空文化する。憲法がなし崩しになってしまう。その結果生まれるのが集団思考が作り出す無責任体制だ。これは国民が「法律なんか守らなくてもよい」という意識を生み出すはずだ。「国民投票でパスしたから正統な憲法だ」と考える人もいるだろうが、2年前に熱狂的に投票したことを忘れて大騒ぎして追い出してしまうような国民なのだ。つまり、権力構造というのは意外と「ミューチュアル」なものなのだ。
アメリカが東アジア地域から撤退するにあたって、日本は自分たちで軍隊を持って地域を防衛する必要が出てくるかもしれないのだが、そのために必要なリーダーシップは得られないだろう。
オリンピックを納得のゆくものにするのは簡単だ。誰か強力な責任者を置けばよいのだ。