アメリカ大統領に絶対的免責が認められた。このエントリーではアメリカ合衆国大統領は在任中に政敵を射殺しても罪に問われないのかについて考える。結論は「わからない」になる。この話の恐ろしいところは「そんなのダメに決まっている」と誰も言えなくなってしまったという点にある。だからアメリカ政治ウォッチャーの専門家の人たちが頭を抱えているのだ。
今回の決定はトランプ氏の裁判を遅らせるために意図されたものと考えていい。実際に裁判と罪状言い渡しが延期されつつある。だが、その決定はトランプ氏以外の大統領にも及ぶ。ではなぜ最高裁の判事たちは半恒久的な影響力があるとわかっていながらトランプ氏に有利な誘導を行ったのか。CNNなどのアメリカメディアはパニックになっておりまともな情報が期待できないのでBBCの記事をいくつか読んだ。
- トランプ前米大統領の裁判への影響は 最高裁が免責特権を一部認める
- トランプ前大統領の「免責」、一部について認める 米連邦最高裁
- バイデン氏、トランプ前大統領めぐる「免責」判断を批判 「法の支配」損なうと
まず最高裁判所の動機について考える。判事の構成を見ると一目瞭然だ。ざっと調べた限り多数派の保守派はカトリック(1名アメリカ聖公会の方がいる)で固められているようだ。カトリックはキリスト教の中でも厳格な教義で知られている。これに対抗すべく民主党はヒスパニック、ユダヤ教徒、宗派が公開されていない左派寄りの黒人を任用してきた。今回別件でシェブロン法理(民主党が環境規制などに使ってきた)を40年ぶりに覆したところからも保守派の判事たちが民主党が推進する政策を「旧来の建国理念(キリスト教に基づく)を破壊する」と敵視している可能性がある。
保守派
- クラレンス・トーマス (Clarence Thomas)アフリカ系・カトリック教徒
- サミュエル・アリート (Samuel Alito)イタリア系・カトリック教徒
- ジョン・ロバーツ (John Roberts) カトリック教徒
- ニール・ゴーサッチ (Neil Gorsuch)アングリカン・チャーチ
- ブレット・カバノー (Brett Kavanaugh)カトリック教徒
- エイミー・コニー・バレット(Amy Coney Barrett)カトリック教徒
改革派
- ソニア・ソトマイヨール (Sonia Sotomayor)ヒスパニック系カトリック教徒
- エレナ・ケーガン (Elena Kagan)ユダヤ教
- ケタンジ・ブラウン・ジャクソン (Ketanji Brown Jackson)アフリカ系(宗派非公開)
ただ最高裁の判事には執行権限がなく民意に働きかけて自分たちの仲間を増やす権限もない。最高裁判所判事は民意で選ばれた大統領から任命されるが終身でありその後に民意が変化しても反映されないという極めて特殊な存在だ。そのため法律を無視して暴走しかねない(いやむしろ暴走するからこそ)トランプ氏に期待している可能性がある。人口動態が非白人化するなかで「まともなことをやっていては国を守れない」と考えている可能性があるのだ。
民主党の大統領を守るために免責特権を拡大する判断をすることはなかっただろうから「やむにやまれぬ心情」から共和党大統領に有利な党派的判断をした可能性が高い。
だがここで問題が出てくる。それがニクソン大統領・フォード大統領の事例だ。ニクソン大統領は二期目の選挙を有利に運ぶために民主党を盗聴した疑いが持たれている。弾劾寸前まで行ったが大統領を辞任した。後任のフォード大統領はニクソン氏を「予防的に」恩赦している。さらに大統領が大統領を自己恩赦できるかについては見解がない。そんなことをやった人が誰もいないためだ。
恩赦と免責の関係こそが危険なのだ。
トランプ前大統領の裁判の中には議会襲撃という暴力事件が含まれている。力による秩序の破壊である。最高裁判所はこの裁判が始まる前に大統領選挙が行われトランプ氏が大統領に就任することを望んでいる可能性がある。仮にバイデン大統領が再選されなおかつ保守派の仲間の判事が退任すると権力を維持できなくなる可能性がある。
もともと伝統的なアメリカが破壊されるという「やむにやまれぬ心情」を持っていてなおかつ自分たちが民意に働きかけることができない。このため大統領に依存する必要があるという特殊性がある。
ではこの決定で何が起きたのか。
進歩派のソトマイヨール氏は大統領が政敵排除を目的としてクーデーターを命令しても免責が認められると指摘している。確かに議会襲撃による選挙の認定活動の遅れが許されるなら当然クーデターも許されることとなるだろう。仮に命じた人が恩赦されれば結果的に誰も裁かれない。
だが別の見方もできる。ソトマイヨール氏らリベラル派は最高裁判所内では少数派でありなおかつ民意に訴えて状況を変えることもできない。彼女たちは彼女たちなりの「やむにやまれぬ事情」を抱えている。つまりいたずらに不安を煽る可能性があるのだ。ソトマイヨール氏の発言は実際にバイデン大統領に引用されておりBBCも「クーデターと政敵暗殺発言」を伝えている。内外に不安の種を蒔きアメリカの民主主義の信頼はガタ落ちとなる。
もともと最高裁判所の判事が終身だったのは「民主主義の最後の歯止め」として静かな環境で議論ができる人たちを作っておくという配慮だったのだろう。だが、今では分断の震源地になってしまった。
今回の件では「中核的な(憲法に書かれている公務)」「私的領域」という区分けがされている。この間に「中核的でない公務」が存在する。この領域を曖昧にすることで最高裁判所は自分たちの意思を通しやすくなる。だからこそアメリカ政治の専門家は頭を抱えている。将来的にアメリカ政治にどんなインパクトが出るのかを明確に分析できなくなるからだ。
実際の裁判にも影響が出ている。トランプ氏は数件の重罪(フェロニー)での裁判を抱える。このうち文書持ち出しと議会襲撃扇動は大統領選挙前の裁判開始が絶望的と見られている。またすでに評決が出ている口止め料裁判も罪状言い渡しが延期されることとなりそうだ。
さて表題の件に戻る。実際にアメリカの大統領がクーデターを仕掛けて免責になるかはわからない。だが法廷闘争を繰り返して抵抗し自分と同じ政党の大統領に免責してもらうという道がある。フォード大統領の事例を見ると予防的免責も可能だ。つまりクーデターで就任した大統領がクーデターの原因となった大統領を恩赦することも可能ということだ。
とすると大統領としては「自分で手を汚して政敵を暗殺するよりも誰かにやらせて犯人を恩赦したほうがよい」という結論が得られる。自己恩赦ができると仮定すると罪には問われるが裁かれず実質的に罰せられないということになるが、それよりも「他人に命じて実行させたうえで恩赦する」か「他人の恩赦に期待する」のが合理的で手っ取り早い。もちろん政敵の射殺が「憲法に定められた中核的な職務」だとは誰も言えないが、グレーゾーンに関してはその都度最高裁判所が判断することになる。
いずれにせよこれまでじゃアメリカ大統領がクーデターや政敵の暗殺を引き起こすかもしれないなどということが語られることはなかった。だがトランプ氏はそうではない。つまりそもそもこのようなことが議論されることこそが人口動態変化による分断に怯えるアメリカの民主主義の変質を象徴しているといえるのかもしれない。