沖縄県で米兵による不同意性交事件が一部で波紋を広げている。警察・検察は外務省には報告したものの県には三ヶ月報告されていなかった。実は5月にも同様の事件が起きていたがこちらも報告されていなかった。さらに「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」が調べたところ過去29年間で15件(1995-2024)の未報告事件があることがわかった。2017年に親告罪になるまでは被害者側から取り下げていたケースが多かったそうだ。
この件をどう扱うかで野党の鼎の軽重が問われることとなるだろうが、立憲民主党・国民民主党の両代表の対応はそれはひどいものだった。
この一連のケースで警察・検察が県に報告を上げていなかった事はわかっている。外務省もどういうわけかこの件を把握していたが県には報告していなかった。
まずどちらが主体的に県に情報を隠していたかを明らかにすべきだ。
外務省が事を荒立てたくないから主導的に県への報告を妨げてきたのかあるいは警察・検察が主導したのかが問題になる。国家経営的視点から見れば「外交・安全保障」という大事の前には個人の性被害など取るに足らない問題だと「誰かが」考えていたことになる。ましてや相手は「左巻き」の連中だ。どうせ騒ぐに決まっている。米軍が地方警察・検察を相手にせず外務省を頼った可能性はある。だが、それでも警察・検察が公表しなかった理由にはならない。そこには左派運動に対する警察・検察のうっすらとした敵愾心と外務省の蔑視感情を感じる。
今回の件に政治的配慮の匂いを感じ取る人もいる。
日刊スポーツは「【政界地獄耳】県議会選挙前の発覚恐れ隠蔽か 沖縄米兵の性的暴行事件」という記事を書いている。だが政界地獄耳でなくても「選挙は念頭にあっただろうなあ」くらいのことは感じる。
性被害は本人さえ黙っていれば「なかったことにできる」とう言う特徴がある。外見上わかる傷などが残らない可能性は高い。沖縄タイムスによると2017年までは親告罪だったために被害者の方から取り下げるケースが多かったそうだ。
警察・検察がよってたかって「訴えるのは面倒ですよ、被害者にも社会的に好奇の目が向きますよ」等と言われてしまうと「なかったことにして忘れてしまおう」と被害者に畳み掛けたとしてもなんの不思議もない。非親告罪化された上にMeToo運動の盛り上がりなどもあり隠蔽できなくなっていたと見るべきなのかもしれない。
今回の事件について語るとき「不愉快だ」と主張する人は少なくない。だがこれは間違っている。
結局のところ価値観が重要なのだ。
国家という大きなものの前に個人は引き下がるべきと考えるならばこの問題は大事にすべきではないといえる。つまり何かと事を荒立てたがる「左巻き」がつけあがらないように彼らを蚊帳の外に置くことは正解と言える。
国家経営者的目線の強い自民党はこうした考え方を持っており「個人が黙っていれば問題は丸く収まるし沖縄をさえ差し出せば日本は今まで通り安全保障について何も考えなくていい」と考えるだろう。ましてや「性被害などもらい事故のようなもので」「何が減るわけでもない」と言えるだろう。
仮に立憲民主党・国民民主党などの野党がこれと同じ価値観しか打ち出せないのならそもそも野党などいらない。
我々が必要としているのは「国家というのは一人ひとりの国民の集合体であって、国民一人ひとりの幸せなくして国家の幸せはない」という価値観である。
「国民第一主義」を掲げてくれる政党こそが必要なのだ。国民という言い方が嫌なら別に左派が好きな「市民」でも構わない。いずれにせよ野党が「一人ひとりの幸せを優先することが国家全体の幸福につながる」と国民・市民を信じさせることができないのであれば、自民党と公明党以外の野党は今すぐ消えてなくなっても構わない。
だが不幸なことに立憲民主党・国民民主党の政治家からは何が何でも一人ひとりの幸福を守るのだという気概や信念のようなものを感じない。
立憲民主党の泉健太代表は眼の前の選挙を有利に運ぶために自民党をどのように攻撃すべきかばかりを考えている。彼の頭の中には選挙戦術はあっても戦略はない。これが泉代表が限りなく軽く見える理由である。
今回も感情的に煽るばかりで最後には「政府は厳重に抗議せよ」といっている。彼にとっては所詮は他人事であり自民党政府が何もしないということさえ証明できればいいのだろう。アメリカではトランプ前大統領がこの手法をよく用いている。
また国民民主党の玉木雄一郎代表も連合に有利な政策誘導にかかりきりでかなり強引な議論を進める傾向がある。今回の件では泉健太代表に比べればまともなこと言っているが「じゃあ国民民主党は何をするんですか?」となってもおそらく彼は何もしないのではないか。
確かに多くの無党派層が「他人の生活などかまっていられない」と考えておりこの問題に取り組んだからと言って明日の選挙に勝てるわけではない。価値観を提示しその通りに行動しても「コスパ」はよくない。つまり戦術的には最適解と言えないかもしれない。
仮に今回の件をオール沖縄運動の復活のための道具と捉えるならば野党の躍進は望めないだろう。立憲民主党は警察・検察の面倒な内部構造には踏み込まず単に騒ぎを大きく複雑にするだけであり国民民主党は「左派運動だから」という理由で問題に参戦すらしないだろう。
今の野党からは、市民第一主義・国民第一主義の明確な姿勢が見えてこない。すべての政治的課題は統制拡大の道具に過ぎず国民・市民もそのために利用されているだけなのだ。我々無党派層はこのことを言語化できないまでもうっすら気がついている。だから無党派は無党派のままなのかもしれない。