国会が終了し岸田おろしの動きが出てきた。主役は2名の総理大臣経験者の麻生太郎・菅義偉両氏である。菅義偉前総理が長い沈黙を破って岸田おろしの動きを加速させている。菅義偉氏は非常に口下手であり何を考えているのかよくわからないが、月刊Hanadaのインタビューによると「全部の派閥の解消」を主張しているという。
菅義偉氏は自民党の中に存在する2つの極端な国家観の一つを代表している。言い換えれば岸田総理はこの2つの国家観の間で揺れていたと言えるだろう。また次の総裁候補も「この2つの国家観」のどちらを選ぶかの選択を迫られることになるのかもしれない。
菅義偉氏は秋田県のイチゴ農家の長男として生まれた。ただ秋田の農家のイメージは都市生活者の考えるそれと大きく異なる。父親は満州からの引揚者だった。南満州鉄道に入社した優秀な人でいちごのブランド化に成功している。ブランド化のために出荷組合の組合長をやったり町議会議員などを務めているそうだ。その手法は現代的な「6次産業」そのものだ。
菅義偉氏は父親から農業大学校への進学を進められたそうだが「東京に出て来ればなんとかなる」と考えて上京した。だが学問のない状態では出世は望めない。そこで法政大学に入学している。学費が安いことが理由だったそうだが「夜間ではない」という。
菅義偉氏の経歴を見ると「農村からやってきた苦学生」というイメージの記事が多い。東京から見た「秋田」のデフォルメである。父親は秋田でイチゴのブランド化に成功しており本人も政治家(小此木彦三郎)秘書から横浜市議会議員になり市長を支えた。
菅義偉氏は2000年に加藤の乱を経験している。宏池会のプリンスだった加藤紘一氏が清和会・森喜朗内閣の倒閣を企てた事件だ。この倒閣運動は野中広務氏の切り崩しにあいあえなく崩壊した。のちに宏池会のトップになる古賀誠氏も加藤紘一氏から離反してしまう。
岸田総理もこの加藤の乱の参加しているがその後の二人の派閥に関する考え方は大きく異なるものとなった。
もともと「叩き上げ」であり一から人脈を作り上げてきた菅義偉氏は「なんだ派閥ってこんなものなのか」と考え派閥から脱却してしまう。
一方で岸田氏は「勝負をかけるときには一気にやらなければダメなのだ」と考えるようになるが結果的には派閥に固執することになった。ただなぜかこのときのお酒は「ドライマティーニ」というなんとなくカッコイイお酒だった。都市的でナイーブな坊ちゃん達の同盟といった風情がある。
今月1日夜、岸田氏は石原伸晃、根本匠、塩崎恭久の3氏とドライマティーニの入ったグラスを傾けた。加藤の乱の最中、加藤派に所属した4人は石原氏の事務所に集まり、「ここまで来たら一緒に討ち死にしよう」と気勢を上げ、日本酒代わりにドライマティーニで固めの杯を交わした。以来、「ドライマティーニの会」と称して、毎年この時期に集まっているのだ。4人の今の立場は様々だ。石原氏は山崎氏から派閥を引き継ぎ、石原派を率いる。塩崎氏は無派閥。根本氏は岸田派で事務総長を務める。
宏池会を継いだ古賀誠氏が後継に指名したのは岸田文雄氏ではなく林芳正(今の官房長官)だ。後継に指名されなかった岸田氏は徐々に古賀誠氏のライバルである麻生太郎氏に接近してゆく。岸田総理も「世襲政治家」であり一から人脈を作った経験がない。このため今あるものにしがみつく道を選んだ。結局は「出自」が二人の命運を変えたことになる。
地方議会・地方政治出身者は「その気になれば自分で人脈を再構築できる」という気持ちがある。宏池会を切り崩した野中広務氏は園部町議会・町長を経て京都府の副知事を経験している。自民党を一度離脱した二階俊博氏も遠藤三郎氏の秘書から和歌山県議となった。菅義偉氏も横浜市議時代の経験から党内外に広い人脈を持っている。
彼らには「党内政治には長けているがまとまった国家観がない」特徴がある。また党内の「エスタブリッシュメント」達から見ると単なる田舎出身の成り上がり者だと見られてしまう。地方議会・地方政治出身者にはガラスの天井があり菅義偉氏はそれを打ち破った例外的な存在だ。つまり今回の次期総裁選争いには階級闘争という側面があるのだ。
マスコミの関心は次第に次の総裁候補に移っている。そんな中で麻生派に属する河野太郎氏が麻生氏に「総裁選出馬の意欲を伝えた」と報道されている。河野太郎氏は世襲で麻生派に所属していながら菅氏に近いという極めて特殊な政治家だ。元は保守の名家だが父親はそのヘリテージを嫌い「リベラル右派」の政治家になった。河野氏が必ずしも次の総理ということにはならないだろうが、少なくとも麻生氏の新しい徴税取立て人になるかあるいはまた別の道を選ぶのかに注目が集まる。