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アメリカ合衆国憲法のOriginalism(原理主義)とInterpretism(解釈主義)の対立

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「原理主義」という言葉がある。イスラム教原理主義と言われるように過激思想と結びつくことが多い。ところがアメリカ合衆国の憲法にも原理主義と解釈主義の対立があり、原理主義が台頭しつつある。

権威主義のイランと民主主義のアメリカは対極にあるように感じられるのだが、双方で同じような議論がみられるのは非常に興味深いと感じた。

日本人はアメリカ合衆国を非常に進んだ先進的な民主主義の守護国であると考える。ところがトランプ氏を中心とした新しい共和党は徐々に「保守化・原理主義化」しつつある。こうした事情は国際政治に詳しい人たちの間では当たり前のように語られているが地上波・新聞などのメディアで取り上げられることはほとんどない。

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この議論について知ったきっかけは定時のABCニュース観察である。2022年に最高裁判所は銃規制の緩和を決めた。これは修正第二条が民兵組織結成の自由を保障しているのだからアメリカ人は誰であっても銃の所持ができるという考え方に基づいている。

ところがCNNによるとこの後「どんな人でも銃を持てるなら麻薬中毒の人や家庭内暴力の加害歴がある人でも拳銃保持ができるはず」と主張する訴訟が増えたそうだ。今回の最高裁判所の決定は「確かに修正第二条は武装の自由を認めているがそれにはやはり限度がある」と認めた。これがなし崩し的な銃規制の撤廃を心配していた銃規制賛成派を安心させたのだ。

しかし、ここで別の問題が出てくる。

  • アメリカでは憲法により幅広い銃の保持が認められており、政府はできるだけそれを規制してはいけないことになっている。
  • とはいえそれには限度というものがある。
  • ではその限度は誰がいつどう決めるのか?明確なガイドラインは作られるのか?
  • 仮にそれを決めるのが最高裁判所の判事だとすると「民意」が反映される必要はないのか?

銃規制に否定的な見解が出ただけで下級裁が混乱したとすれば、今後いちいち「普通とそうでないものの線引き」の混乱が予想される。

議論はそれでは終わらなかった。実は今回は「建国の精神」も問題になっている。

アメリカ合衆国の建国当時には銃規制という概念はなかった。主にヨーロッパからやってきた移民たちはさまざまな敵(原住民、野生動物、王権を拡大しようとするイギリス、そのほかの外国勢力)と戦う必要があっただろう。アメリカ合衆国は厳密には誰も住んでいない無主地ではなくヨーロッパ系の人たちが原住民から土地を奪っている。この時にも銃火器が必要だった。つまり民兵組織は厳密には防衛組織ではなく侵略社としての側面が否定できない。

ところが冷静に考えると今はそうではない。またフロンティア精神も「実はあれば侵略だったのではないか」という見直し運動がある。建国当時と事情が違っているのであればその都度話し合って憲法の解釈を変える必要があるし、必要であれば憲法改正をすべきだろう。

しかしながらCNNなどの議論を読むと銃規制反対派は「憲法ができた当時にはそんな規制はなかったから当然憲法は無制限の銃保持を認めている」と言いバイデン大統領を含む銃規制賛成派は「憲法ができた当時にも銃を規制する法律はあった」として歴史的解釈について議論している。つまりここでは「憲法が無謬の聖典」になっている。また大統領は議論を総括する立場にない。プレイヤーの一人にすぎないのだ。

よく日本国憲法は剛性憲法であり変更が難しいなど言われることある。改憲論者は「アメリカのように憲法改正が行われるべきだ」と主張する。ところがこの修正第二条は明らかに現状に合致していないにもかかわらずいまだに修正されていない。そればかりか「建国当時の精神を参考にして」などと原理主義的な使われ方をしている。また総理大臣と違って大統領は強いリーダーシップが発揮できると考えるがそれも厳密には正しくない。

憲法原理主義を採ると「聖典」の解釈ができるのは最高裁判所の判事だけということになる。民主的に選ばれた大統領によって指名されるが終身性のためアポイントされたあとは民意が働かなくなってしまう。現在の最高裁判官は共和党系が指名した保守派が多い。彼らは「建国の精神にたちかえれ」と主張している。彼らがあたかも「建国の精神」という神の啓示を解釈する神官のように機能していると言っても良いだろう。

これではアメリカ人が嫌うイランの神聖政治とさほど変わらないのではないか、と書いたところアメリカの法律に詳しい人から指摘をもらった。アメリカ合衆国の憲法にはOriginalism(原理主義)とInterpretism(解釈主義)という対立軸があるのだという。原理主義は憲法は建国時の精神に基づいて厳密に判断されなければならないと考える。一方の解釈主義は「憲法は適時的確に判断されなければならない」とする。

アメリカ合衆国で憲法原理主義が台頭するのは変化に疲れた人たちが大勢いるからだ。建国当時のアメリカ市民はほとんどがヨーロッパ系の白人であって黒人は単なる労働力に過ぎなかった。市民社会はキリスト教的な伝統によって支配されておりキリスト教徒には非常に居心地の良い環境が整備されていたといえる。彼らは伝統的なキリスト教社会への回帰を熱望している。だから建国の精神に固執する。

だがアメリカの民意の変化は実は中間層の没落と強く結びついている。白人・男性の中間層は脱落に対する恐怖心を持っている。だがそれをきちんと解釈することができず代わりにキリスト教由来の道徳に固執するのだ。

彼らの憲法原理主義は「十戒」などの聖書の教えを厳密に守るべきであるというキリスト教回帰主義に接続する。南部諸州とアメリカ化した福音派が熱心にキリスト教回帰運動を推し進めており、ルイジアナ州ではついに「十戒は法の支配の原点である」という極端な法律として結実した。またこのルイジアナ州に追従する州も出てくるものと見られている。

アメリカ合衆国における一連の議論はかなり複雑なもので、記事を少し読みあさったくらいで全容をつかむことなど不可能だ。それでも多様化が進み現在の法秩序を破壊してでもIT革命を進めるべきだと考える「新しいアメリカ合衆国」と建国時の精神に固執し変化を拒む「古いアメリカ合衆国」への分化が進んでいるというのは確かなことのようだ。

この分断を背景に最高裁判所判事の「神格化」が進んでいるのだが、最高裁判所の判事たちは企業からの接待疑惑(政治家と違って守るべき倫理コードがない)にさらされている。また逆さ星条旗を通じて議会襲撃(憲法秩序の破壊)に共鳴したと疑われているアリトー判事は今回の判断には加わらなかったそうだ。今回の判断に唯一反対した判事は「修正第二条の精神が軽んじられている」と強硬に主張したなどとも伝わっている。

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