ロイターに興味深い記事が載っていた。「G7のウクライナ融資、EU諸国は直接関与せず=イタリア首相」今回日本で「対ウクライナ大型支援」とされているものは実際にはローンなのだがそのローンにも協力しないという。
アメリカ合衆国のバイデン大統領は「西側諸国はウクライナを支援する」と強調したが、ホスト国であるイタリアの首相がそれを打ち消した形になる。
メローニ氏は分類上は「極右政権」の首相である。国際協調主義には懐疑的な支持者が多いのだろう。もともとG7サミットはバイデン大統領の政治的宣伝の意味合いが強かった。だがメローに首相はこれが支持者を離反させかねないと考えているのかもしれない。
彼女が強調したかったのは「イタリア人のお金は使われない」という点だけだ。つまり誰がお金を出すのかには全く興味がない。だから「アメリカ、カナダ、イギリス」がなんとかするんでしょうと言っている。ここで日本は「多分何かするんじゃないか」と付け加えられている。「よくわからないが日本も憲法がどうしたとか言っていたなあ、細かいことは忘れたが……」扱いだ。
メローニ氏は記者会見で融資について「米国のほかカナダ、英国、そしておそらく日本が憲法の制約の範囲内で、提供することになるだろう」と述べた。
大統領選挙を控えたアメリカも総選挙を控えたイギリスも「ロシアの凍結資産を使って貸し出すだけ」と強調していることから実際には積極的な支援を表明した国はないということがわかる。それにしてもなぜ日本は「おそらく」なのだろうか。
実は細かいことが決まっていないのだ。
日本はJICAの借款の形で部分的に参加するのみだが憲法制約からどこまで参加するかを明らかにしていない。国内ではレームダック化(時事通信はもはや死に体だと書いている)ため国内で議論がまとまるとは期待されていないのだろう。時事通信は次のように書いている。
日本は国際協力機構(JICA)を通じて借款として資金を拠出する方向で検討。軍事面での利用は認められないため「条件が整えば参加する」(外務省)姿勢だ。日本の立場はG7内で理解を得られたというが、非軍事利用を担保する仕組みが求められる。
日本人は勧善懲悪型のニュースを好む。ウクライナの戦争は長期化し「スカッとする」話題を提供できない。だから日本人はあまりこのニュースに注目しなくなった。日本人は飽きてしまったのだ。
さらにG7サミットも「世界の中心で輝く日本」を実感する場所に過ぎない。G7は世界の問題をスパッと解決する「アベンジャーズのような集まり」ということになっている。だが今回のG7サミットにはこのようなスッキリ感がなかった。正義が勝たない映画は見ていてもつまらない。
岸田総理は外交得点によって支持率を上げるチャンスを得られなかった。だが逆に言えば「いつもの岸田総理らしい煮え切らない対応」も露呈せずに済んだといえる。さらなる支持率低下につながらないという意味では不幸中の幸いだったのかもしれない。
G7の後、スイスで行われたウクライナ平和サミットはウクライナを全面的に支援するという方向で共同声明がまとまった。ところがこの共同声明に新興国は参加しなかった。イアン・ブレマー氏によると参加国、非参加国、共同声明非参加国は次のとおり。グローバルサウスが軒並み「共同声明非参加国」となっている。ルラ大統領は平和サミットの実効性に疑問を投げかけた。時事通信(新興国は様子見と書いている)のまとめによるとトルコは共同声明にサインしたがエルドアン大統領は加わらなかった。アメリカもバイデン大統領は入らなかった。インドは共同声明にも加わらずモディ首相も参加しなかった。そして中国は最初から参加していない。
共同声明は幅広い支持を得るために異論のある問題が一部排除されたにもかかわらず、インド、インドネシア、メキシコ、サウジアラビア、南アフリカなどが署名を見送った。
理由についてサウジアラビアは次のように言っている。つまり「ウクライナの妥協(領土を諦めろということだ)」がない限りはサミットをやっても仕方ないということになる。新興国が署名しなかったのはおそらくこのためだ。
次回サミットを巡っては、候補地の一つとみられていたサウジアラビアを含め開催を申し出る国はなかった。サウジのファイサル外相は和平プロセスを支援する用意があるとしつつ、実行可能な解決策は「困難な妥協」にかかっていると述べた。
NHKは世界が「悪辣な」ロシアに対して一枚岩になった世界がウクライナを支援しているというトーンの報道している。だがこれは既に単なる物語になっている。おそらくNHKも政治報道意外ではこのトーンを信じていない人がほどんどだろう。国際報道を見ていると全く違った解説が行われることがある。その意味ではG7報道を担当してるのは官邸記者クラブであり政府広報に過ぎないということが言える。政府広報化している彼らも実際には日本政府の主張などまともに信じていないのかもしれない。