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国民は自民党の指導のもとで団結すべきである、という革命思想

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自民党の先生が面白いツイートをしている。自民党改憲草案の家族規定は「訓示規定だ」というのである。辞書によると、訓示規定とは罰則を伴わない指示のことだという。

特に罰則を設けないから安心しろと言っていることになる。これで納得する人は誰もいないのではないかと思う。辞書の説明によると、訓示規定とは行政府や裁判所に対して国が「指示する」ことだ。このベクトルは当然だ。主権者が代表を出して法律を作っており、税金を使って組織を運営しているわけだから、指示するのは当たり前である。
さて、憲法だ。そもそもなぜ憲法に訓示規定を設ける必要があるのか。設けるとしたら、それは誰が誰に対して訓示するのかという問題が出てくる。
憲法は権力者を縛るために存在する。ベクトルは主権者から国家権力に対して向いている。この場合は行政府や裁判所(司法)である。ところが、この規定のベクトルは国家から国民に向いている。国民を主権者とするとベクトルが逆なのだ。本来なら、これをあれこれと証明しようと理論をこねくり回すところだが、その必要は全くなかった。ご本人からメッセージが来たからだ。


つまり、自民党は憲法を国民が権力を縛る立憲主義から、国が国民に対して「国柄」を提示するべきだと考えているのだ。これは立憲主義を大きく逸脱するが、議論としては成り立つ。疑問はいくつかある。

  • 第一に国民はいかなる理由で一度手に入れた主権を放棄し、誰かが作った「国柄」に従う必要があるのか。
  • 次にその国柄は誰がどのような権能を持って提示するのか。
  • なぜその誰かが自民党でなければならないのか。

このように考える権力者は珍しくない。例えば中華人民共和国は中国共産党が示す規範に国民が従うべきだと規定している。同じ考え方は北朝鮮にも見られる。その意味ではとても「東アジア的」である。自民党の改憲草案はいわば「上からの社会主義革命」だ。もし形式的に国民議論の体裁を取っているとしたら、国民の一部がその他の国民の主権を簒奪する行為と言える。中国共産党が国民党を追い出して全土を統一したのと同じことだ。
今日も安倍首相が「価値観を同じくする国」という表現を使ってフランスのテロについて言及していたが、すくなくともフランスは「一党が国民を指導すべき」などとは考えていない民主主義国だ。安倍首相は中国に対してこの形容詞を使わなければならない。
このツイートの恐ろしいところは、主語が「自民党」になっているところだろう。全ての自民党の人たちが、立憲主義はこの国には合わないと考えているということになるのだが、とてもそうは思えない。そもそもこの議論を理解していない議員も大勢いるのではないだろうか。
しかし、選挙で勢力が拡大しただけで、ここまであけすけに主張を明確化できるものなのだろうかと考えると驚きを禁じ得ない。
と、同時に自民党の一部の人たちが考える「国柄」が何を表しているかが分かって面白かった。この人たちは法ではなく規範で国家が運営されるべきだと考えており、力の向きは国家権力から国民に向いているのだ。
法治主義というのはきわめて個人主義的な概念だ。状況から文脈(誰が誰に)を除いて抽象化・透明化することによって、誰でもが法律に従うということにしているのだ。この抽象化のことを「法のもとの平等」と呼んでいるのだろう。一方で規範には文脈がある。中国が「人治主義」と言われるのは、文脈によって判断が変わりうるからだ。
その意味では磯崎憲法観はきわめて人治主義的だと言える。憲法というのは規範集を含み、単なる法体系ではないということになる。十七条憲法のようなものと言えるかもしれないし、教育の分野では教育勅語のようなものだろう。
憲法学者と自民党の意見が合わないのは、憲法に対する基本認識が違うからだろう。憲法学者は憲法を「国民が権力を縛るものだ」と規定し、法というのはできるだけ文脈から自由であるべきだと考えている。しかし、自民党(磯崎先生の主張が確かなら、だが)はそもそも立憲主義も法治主義も埒外なのだろう。
議論の本質は「国民が主権者であるべき」か「誰かからが提示する規範に従って生活すべきか」という点だといえる。その意味では、個別の条項について議論しても意味がないのだろう。もし、国民の主権が制限され規範に従うべきだ(罰則規定はないが指示はする)などという人たちが2/3もいるのだとしたら、もうこの国の民主主義は壊れてしまっているとしか言いようがない。