ざっくり解説 時々深掘り

鹿児島県警本部長は何を隠蔽しようとしたのか 大手メディアも事件を伝え始める

Xで投稿をシェア

先日お伝えした「鹿児島県警秘密漏洩事件」だが、AERA.dotが「事件隠蔽」を示唆する報道を出した。全てカギカッコで括られているが、意外と早かったなという印象だ。

今回新しく背景にジャニー喜多川事件と同じ構図があることがわかった。性被害を受けた女性が鹿児島県警に事件をもみ消された疑いがある。日本では性被害を軽く捉え「被害者が何も言わなければなかったことになる」と考える傾向があり、当初マスコミも一連の問題を「情報漏洩問題」とすることで二次被害に加担したことになる。過ちは今も繰り返されている。

AERA.doの記事は「鹿児島県警「本部長の犯罪隠蔽」に「失望した」元警視正の“告発” 内部資料送られたジャーナリストが訴える「ずさん捜査」」という表題だ。先日は断片的な情報をもとに組み立ててお伝えしたのだが鹿児島県警のやり方は想像以上に強硬なものだったようだ。

この記事ではまずAERA.dotが伝える事件のあらましを整理する。次に「おそらく日本人の多くは政治的な議論ができないだろう」という問題について考える。

Follow on LinkedIn

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで

|サイトトップ| |国内政治| |国際| |経済|






前回は「ハンターがリークをもとに記事を書きそれを知った鹿児島県警が家宅捜索をした」と書いた。これが間違っていた。鹿児島県警はどこかで情報を知り(あるいは疑いを持ち)家宅捜索をして既成事実を作ろうとしたようだ。つまり報道が出るのを阻止しようとした可能性があるということになってしまう。やり方としては中華人民共和国やロシアなど報道の自由のない国に似ている。ただ独裁者を守るために起こした行動ではない。組織的自己保身なのだ。

AERA.dotの関連箇所を引用して整理してゆこう。

「内部告発は信ぴょう性が高いと思ったが、裏取りするにも高度な個人情報が含まれていることもあり、見合わせていた。これが事件に関連する内部告発だと知ったのは、本田さんの勾留理由開示の法廷の後です。当然ですが、本田さんのことはまったく知りません」

県警は事件を作ってから「私=情報の受取手であるハンターの小笠原氏」を取り調べようとした。

「事件になって、鹿児島県警から連絡があり、私を取り調べたいとのことでした。仮に私に届いた内部告発が法に触れるというなら、本田さんを逮捕する前に捜査すべきでしょう。内部告発の原本や手紙が本当にあったのかどうか、私に確認もせずに本田さんを逮捕するなんて、あまりにずさんな捜査ではないですか。鹿児島県警は不祥事や隠蔽続きですから、私も罪をでっちあげられるかもしれないと思うと恐ろしい」

ここで本田さんを解放するようにとの請求が出され、その中で本田さんの主張が報道されたことで事件は「捜査の隠蔽ではないか」ということになってゆくのだが、仮にそうでなければ「罪がでっち上げられていた」可能性も否定できない。これも中国やロシアなどでありそうな話だ。

ただ、なぜハンターが狙われたのかが見えてこない。事前に誰かが「ハンターに情報を送ったと県警側に漏らした」のかもしれないがそうでない可能性がある。

AERA.dotの記事で「藤井光樹巡査長(49)の事件」として触れられているがやや分かりにくい。ハンターは既に鹿児島県警察の情報漏洩事件を報道していた。県警内部に情報提供者がいたことはわかっていたのだろう。ただ「なんか怪しい」程度で家宅捜索まで行ったということになりハンター側が「恐ろしい体験だ」と考えるのも当然ということになる。

ただこの事件はここでは終わらないのだ。

ジャニー・喜多川氏の事件でもみられた日本独自の病的な構図がある。権力者と性被害者では権力者の方が力関係が強く「性被害如きは被害者が黙っていれば丸く収まるのだ」という外部からの力が働きやすい。

この場合は被疑者(記事では犯人と書かれているが事件化されているわけではない)の父親が警察の関係者だった。県警は「身内の恥」を隠蔽するために被害を受けた女性に泣き寝入りを強要したことになる。女性は検察審査会に働きかけをしているそうである。

「犯人は元職員と特定されており、被害女性の代理人に謝罪文を書いて、『自らの理性を抑えることが出来ず、衝動的な行動に至ってしまいました。私が、今回犯してしまった罪は、どのような理由があっても決して許されるものではありません』と認めていました。私は被害女性らに寄り添っていて、すぐにでも逮捕に至ると思っていました。それなのに22年1月、鹿児島県警はいったん告訴状の受け取りを拒否し、弁護士がねじ込んだ末、なんとか受理された。その過程で、この元職員の父親が鹿児島県警のOBであることが判明したんです。実際にOBの父親は、複数回警察署にまで行っている」

つまりこれまでの「内部告発なのか機密漏洩なのか」という問題だけでなく性被害の隠蔽という疑いまで浮上したことにある。ただこの件について扱うメディアはが無かったことも事実だ。つまり県警が強引な捜査をしなければ闇に葬られていたのかもしれない。

さてこの問題については先日断片的な情報をもとにしてお伝えした。この時に事件のあらましについて知りたがっている人がいたので「こういうことですよ」とSNSに書いた。するとその人から返事はこなかった。日本人には刺激が強すぎたようだ。

例えばアメリカの学校では歴史の授業の中に「自分で本を読んで背景を調べましょう」というものがある。調べたことを持ち寄ってみんなで討議する。このやり方は時間的に効率的ではない(タイパが悪い)ので古代から現代までの歴史を網羅的に把握できなくなるが与えられた情報をもとに自分なりの意見を形成する訓練ができる。歴史年表は忘れてしまえば終わりだが、自分で調べるというスキルはその人の一生の財産になる。

一方で日本の歴史教育はまず「正解」を年代順に暗記してゆく。この時に教科書の内容を疑ってくださいという教育を受けることはない。さらに運動会やクラブ活動を通じて「みんなでチームを応援する」という訓練を盛んに行う。このため日本の政治議論は「どっちが正解なのかを競い合うゲーム」になることが多い。この際に都合のいい事実を選り好みする「チェリーピッキング」が行われ最後にはお互いの人格攻撃になるのが一般的だ。

もちろん日本でも学区の偏差値トップ校や私学などで議論を教えるところはある。こうした学校は地域のエリート養成が目的になっている。一部のトップ校には議論の伝統がある。しかしそれ以外の学校は「上に指示されたことを間違いなくこなす」人材の育成が優先されるため「上が定めた正解」に疑問を持つのは具合が悪い。日本では製造業の労働者や単純なサービス労働者が多く求められており議論を伴う教育は指揮官のための特別なものと見做されている。

日本の教育は軍隊指揮教育が基礎にある。大勢の兵隊は声を出してチームを応援する。だが少数の指揮官は必要だ。議論スキルは少数の指揮官候補にのみ与えられた特権なのである。

NHKが事件を情報漏洩事件として扱い裁判所も情報漏洩だと言っている。つまりこの事件は「情報漏洩事件」であるというのが国の定めた正解である。これに疑いを持っていいのは一部のエリートだけだ。一般市民はそんなことは考えなくてもいい。

さらに今回この事件に対して違和感をもつためには何らかの価値観を持たなければならない。ところがこの「自分なりの価値を持つ」のも日本ではエリートにのみ与えられた特権になっている。

  • 健全な民主主義を保つためには報道の自由が保障されなければならない。
  • 健全な民主主義を保つためには、警察のOBを父親に持つ人も社会的な立場の弱い人も平等に扱われなければならない。

一般市民は価値観を持つことも許されない。これは自民党の政治と金の問題にも言えることだ。価値観を持てるのは世襲の一部の指導的議員だけである。彼らは生まれながらの指揮官階層だ。それ以下の議員たち(地方議会から世襲議員によって選抜されることが多い)にはこうした価値観を持つことは許されない。

彼らに許されているのは指揮官が設定したルールの元で私的な利益を追求する自由だけである。だから自民党議員の中には「ルールに基づいて裏金で節税対策しただけだ、みんなやっているのになぜ自分だけが責められるのだ?」と主張する人がいる。彼らはそもそも健全な民主主義を守るためには有権者からの信任が必要であり、信頼を獲得するのは一人ひとりの議員の神聖な仕事であるという価値観を最初から持つことを認められていないし期待もされていない。

自民党が組織として信任されなくなったのは岸田総理や麻生副総裁といったトップが国民と価値観を共有できなくなっているからだ。そして、一旦トップが崩れると組織勢隊が崩壊する。「下」の人たちはそもそも代替価値が提示できない。

鹿児島県警察もそのような状態になっている可能性があるのだろう。東京から新しい本部長がやってくる前からモラルの崩壊が起きていたのかもしれない。また東京から送り込まれてきた本部長も「上からの評価」を恐れ「組織の信頼を守るために何をすべきか」が考えられなくなっていたのかもしれない。

現在日本では自動車産業でも同じ問題が起きている。高すぎる売り上げ目標に合わせるために杜撰な検査が行われていた。ダイハツ事件の時にはトヨタから送られてくる中間管理職的なトップと品質管理作業員の間にコミュニケーションのギャップがあった。

ところが改めて調べてみると認証検査は多くの企業で形骸化していた。自動車産業の方が先行しており国土交通省のきまりがアップデートできていなかったという側面があるようだ。日本のような教育体系の国で「下=現場」の人たちがルールメーキングできないのは当たり前といえるだろうが「上」の人たちも実は中間管理職化していて新しい価値をもとにした制度設計ができなくなっている。

ところが現在では「エリート」が日本の中から消えてしまった。つまり自分で物を考えられる人は既に国内産業からも官僚の世界からも流出してしまっている。「キャリア官僚の合格者、東大の出身が1割以下…国家公務員 MARCH日東駒専」という記事が出ている。

本当に自分の頭で考えることができる「司令官的な人」は日本にも存在するのだろうが、おそらく地域社会、・政治・国内企業からはいなくなりつつあるのだろう。結果的に自分達で価値観を創造できない指示待ちの下士官と兵隊だけが戦場に取り残されているのだ。

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで

Xで投稿をシェア


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です